帯広の斬新奇抜な集合体「北の屋台」
帯広には世界に例を見ない画期的な場所がある。「北の屋台」と名づけられたその領域とは、今までの屋台商売の概念を見事に覆した、斬新奇抜な集合体を構成しているのだ。そもそも屋台という形態は歩道上での営業のため、保管場所と営業場所を毎日往復しながら、手間をかけて組み立て、収納を繰り返し、上下水道を完備していないので、ポリタンクのため水での非衛生的な調理を余儀なくされる。そのためメニューも客に出す直前に熱処理(焼く、煮る、炒める)した温かいものしか提供できない。これらの問題点を克服した人物こそ、北の起業広場共同組合代表、坂本和昭氏。今回の料理講習での世話人、後藤健市氏とタッグを組んで地域再発見を企画、開発している実力者である。彼らがとった方法とは、火事で消失した市場跡の駐車場を安く借り受け、上下水道、電気、ガスの設備を整えた各厨房部分を固定方式にして、そこに移動式の屋台をドッキングさせるという逆転の発想であった。保健所の営業許可の取れる状況は冷蔵庫も設置できて、なま物や冷たい献立も提供可能になり、そして、中央部分には共同の水洗トイレ、雪対策には通路のロードヒーティングを整備、さらに厨房熱を利用した温度管理まで徹底した方式は寒さ対策も万全であった。
「もう一度、帯広に来てもらえませんか?」。坂本、後藤、両氏からお誘いがあったのは、講習から半年を過ぎた秋口の頃だった。十勝毎日新聞のコラムで触れた食材事情の文脈が、彼らの活動方向と合致した模様だった。簡潔に述べると「十勝ならではの力強さを持った食材達の価値に気づき、究極に活用できる独創的なメニューの開発をする。豚丼も悪くないが、帯広に出向かなければ味わえない十勝鍋や十勝焼きを考案して発信する、それが地域活性化の源となる。時間のかかることではあるが、根強く愛された食べ物が定着して、確固たる信頼を得る食文化が構築され、名物料理が世に知れ渡ってこそ、十勝帯広に誘惑される。その重責を担う、最前線の北の屋台の方々は、最適の発表の場を持っておられるのではないだろうか。」そんな内容だった。今回の依頼は「北の屋台」に参考になる、メキシコ料理講習の要望だった。常日頃、日本の食文化の中に本来のメキシカン・テイストが溶け込んで欲しいと願っている私は、承諾して、後日、再び帯広へ向かった。腑分けされたばかりの部分肉や畑の香り充分の野菜類をふんだんに使った10品目の献立は好評で、約80人を集めた試食会の記事は、翌日の新聞紙面を大きく飾った。これからの帯広食事情に大いに期待したいものである。

「TODO MUY RICO. PERFECTAMENTE!」
「個室がありますか?」お客様からのご予約の際、時折質問されることがある。他人に顔を見られたくない、身内だけで気兼ねなく食事を楽しみたい。著名な方々や、雑音の無い場所での接待等、相手方の諸事情はよく理解できる。
残念ながら、ラ・カシータは、備えていないので、これまでご要望を裏切り、断念していただく場合も多々あった。ただ私の持論ながら、人間(生物)の最大の要である食行為は、緊張感の無い中で無防備、且つ、無邪気に没頭できることが望ましいと常日頃考えている。客席のそれぞれの食卓の方々が同じ目線、同じ距離感で食事を楽しんでこそ、お互いに共有できる幸福感が生まれてくる。提供する私達もマニュアルやレシピ通りに調理するのではなく、その瞬間に届けられる美味しさを最大限に表現することが使命であり、厨房の連携が食味を堪能したお客様の感動を呼び起こす基盤だと確信している。手掴みで食するものが多いメキシコ料理だからではなく、気を遣う必要を感じず、自分自身を投影できる食事体系の精神が我が店の一皿、一皿には注入されているものとの自負もある。2002年も深まった秋の頃だった。NHKホールからの予約の電話は光栄な事実を告げていた。「プラシド・ドミンゴさんがそちらの店をご希望です。大事なお客様なので個室がないのなら、目立たない席をお願いします。」生憎、その日は満席状態で、隅の席ならご用意できますと答え、到着を待った。20分後、黒塗りの高級車で現れた一行6名に店内は一時騒然となった。
ルディアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラスと共に三大テノールとして世界に誇るオペラ界の巨星の来店に緊張感は流れたものの、ご本人は、いたって気さくに奥様と身内の関係者を紹介された後、「美味しいメキシコ料理店と聞いて来た。楽しみにしている。」と着席された。私が修行したメキシコのレストランをよくご存知で、ご自身が好みだった献立をいくつか挙げられ、「出来ますか?」と問われたので「勿論!」と受け、前菜のアボガドディップ、マサ(とうもろこしの生地)を小振りに成型して焼いたものに檸檬を付け、豆のペーストや煮たトマトのサルサを乗せたソペス、トルティージャのスープ、海老のガーリックオイル炒め、牛フィレ肉を帯状に広げて焼いたタンピコ風ステーキ等、終始ご満悦の表情で召し上がられた。「如何でした?」への返答は「TODO MUY RICO. PERFECTAMENTE!(すべて美味しい。完璧だ!)」の賛辞を頂けた。後に知ることになるが、1955年、メキシコシティの国立音楽院で学び、4年後のデビュー以降、メキシコシティに住居を構え今に至る彼に、今回のコンサートを手伝った日本人のスタッフ(常連の顧客)から推薦があったみたいである。「今度はここでPARTYをやりたいな」と大満足で帰られた。1ヵ月後、スペイン語で歌われたCD、3枚がサイン入りで感謝の言葉のカードと共に送られてきた。

「“チェリー”はスペイン語で“セレサ”」
今回は現在の場所でのオープンに至るまでの経緯を振り返ってみたい。結果的に8ヶ月の休業を余儀なくされた期間、再開を待ち望むたくさんの顧客の方々の数々の助言に勇気を頂き、さらなる未来への希望を与えられていたが、見えない将来への不安を胸に不動産屋を巡る毎日が続いていた。まだ携帯電話もパソコンも無い時代、ご紹介を受けた店舗物件は、恵比寿、中目黒、広尾と近隣のものばかりで、どうしても代官山に固執していた乗り気にならなかった。しかし、古くからの住宅街には雨後の筍のような現象は期待できず、微かな焦りも感じていた。数ヵ月後、吉報はご近所の方からだった
「知り合いの親が亡くなった。相続税支払の為にテナントビルにするらしい。」早速、出向いた先は、以前の店から徒歩5〜6分の距離。同潤会(どうじゅんかい)のアパートを挟んだ裏手だった。願ってもないその候補地は、まだ設計図ができたばかりで、一般に公募はされていなかったが、その日のうちに契約を申し込んだ。街灯も無く、夜になると真っ暗でひっそりとした一角だったが、ラ・カシータの道程に一筋の光明を見出せた瞬間だった。その後、アドレスの建設と共に、道路が広く整備され、ビルが立ち並ぶ一等地に変貌していくとは、この時代はまだ知る由も無かった。
代官山の風情を色濃く醸し出す、同潤会アパートの側に恵まれた場所を確保できた私は、旧山手通りの店のイメージに近い形の再現に強い思いを馳せていた。違法と知りながら、契約の坪数では足りない分の床面積の増築をビルのオーナーに哀願したり、設計者には申し訳なかったが、テラスを作るために壁をぶち抜く相談をするといった傍若無人の振る舞いを思い返せば、かなりの強情者だったようだ。熱意(?)は受諾され、順調に工事が進む中、オーナーと間近の完成を祝い、2人で食事をする機会があった。その席で新築ビルの名称を聞かされた。
「チェリー代官山にしようと思っている。」亡くなられたお父上が山形出身、果物屋を始めてさくらんぼで成功して、この土地を残してくれたとのこと。思いは理解できるが、少し違和感があったので、「スペイン語でチェリーは『セレサ』って言うんですよ。」と提案してみた。「いいね!いいね!響きがいいね!」と至極ご満悦で、こうしてビルの名前はセレサ代官山に決定した。好都合な事に代官山駅改装のために、すぐ横に駅が仮設され、オープンと同時に店の存在を知らしめる状況に繋がってゆく。建築段階から関与できたおかげで、ほぼ理想通りの形で新たなるスタートを切る次第になったことは、自身の思い入れだけでなく、何かしらの巡りあわせの運を感じている今である。

「命ある限り、メキシコ料理探求を!」
セレサ代官山店の工事に平行して私は更なる活力充電のため、メキシコへ旅立つ準備をしていた。同行を希望した店長の松田、料理長の市川と共に各主要な街を巡る計画を立てる中、それぞれの地域のレストラン、市場、定食屋、タケリアに育成された食の根拠に迫り、それを探るべく旅にしようと、旺盛な探究心にそれぞれの思いは膨らんでいた。オープン2ヶ月前の頃だった。
太平洋岸、アカプルコに降り立った私達は休む間もなく、即、街へ出かけた。、手にはノートとカメラ、数件の店で地元のシーフード料理や定番の皿を注文する度に写真に撮り、スケッチを描き、食材、調理法の印象と味の感想を書き込んでゆく。3人だと数多くのメニューを食せるのでかなりの種類の分析が可能だった。全員、観光気分に浸ることなく、真摯な態度で食の探索に励んでいたが、久しぶりの訪墨に私の心は弾んでいた。3日後、メキシコシティに移動。早速、師匠(Gabriel)の元を訪ねた。
彼は突然の来店に驚きながらも、満面の笑みで私を抱擁し、再会を喜んだ。伝統の味を堪能する中、撮影の許可を得、メモを取り続ける私達に、調理の合間を窺い、側で解説を加えてくれた。「厨房を見たい」という要求にも、快く、仕事場を隈なく案内し、私達に存分に知識を与えてくれた。その姿に同行の2人も感動を覚えていた。
偶然、高校時代からの朋友、中本が、大手商社の財務の長としてシティに赴任していた。家族は6ヶ月後まで来ず、単身で寂しい生活を送っていた彼は、外地での出会いを悦び、事あるごとに逢いたがっていた。滞在中、老舗の名店での食事の後、一晩泊めてもらったが、寝室は3つ、バスルームも3つ、広いリビングは2つ、キッチンやメイドルームなど、日本では想像もつかないほどの環境に一人で住んでいた。部屋の間取りを案内した後、彼は余程うれしかったのか、子供のようにはしゃぎ、2人で酒を酌み交わしながら会話は明け方まで尽きることはなかった。
それからの行程は銀の里、タスコからインディオ文化のオアハカへ渡り、スペイン軍上陸の拠点となったベラクルスからマヤの聖地、メリダへと旅は続き、最終地、ロス・アンジェルスでのTEX-MEX料理に至るまでの3週間の旅程は無事終了した。この時の経験が以後の講習や料理本編集に際し、すこぶる貢献したのは言うまでもない。先日、中本が亡くなったのを知らされた。10年ほど前にも市川が病で逝ってしまった。同士を失う、人の世の儚さを想いながら、命ある限り、更なるメキシコ料理探求の道筋を邁進する気持ちでいっぱいのこの頃である。

「稲川淳二とラ・カシータ」
渋谷公園通りのラ・カシータは、1年半の短期間ながらも思いの外、顧客の心に印象深く捉えられていたエピソードがある。当時の客層を振り返ると、NHKの美術班のスタッフや寺山修司氏率いる劇団「天井桟敷(てんじょうさじき)」の団員の方々、桑沢デザイン研究所の教授や学生達等、時代の表現者の面々に相通ずる何かを感じ取って貰っていたようだし、毎月のように受ける取材も、若者のアンテナ雑誌である「平凡パンチ」、「プレイボーイ」、「GORO」など、まだ見えない遥か未来へ向かって自分の思惑に準じた「時代の要求の波」に揺り動かされていた。当の私は無我夢中で一瞬の時を走り抜けたくらいの記憶が断片的に残っているだけだが、2003年、夏、意外な事実を知ることになる。ファッション雑誌「GINZA」の特集、都内厳選15軒のメキシコ料理店の取材を終え、製本された他店の紹介記事を閲覧している時だった。世田谷区、桜新町の「トミ田ヤ」の店主のコメントに、最初はうどん屋になるはずだったが、「今はなき渋谷のメキシコ料理店の味が忘れられない」との思いで、メニューはケサディージャ等の軽食の他、メキシカンうどんも発案されたとあるではないか。表現の余波が生み出した影響の道程は、私にとって正に光栄の至りであった。
同じ年の秋、TBSの朝の番組「暮らしの便利帳」の収録があり、家庭の冷蔵庫にある食材で作るメキシカンテイストの一皿を撮影している時だった。水抜きした豆腐をフリッターに仕上げ、青唐辛子を効かせたトマトソースに絡めた一品はディレクター女史の眼鏡にかない、放映の後、ご本人はすっかり我が店の献立の虜となって通う日々が続いていた。ある時、「どうしても連れて行きたい友達がいるんだけど、固辞されているのよ。」と残念そうに話された。聞けば、「稲川淳二って知ってるでしょ」彼が、「自分が若い頃食べた公園通りのメキシコ料理店の味を越える店などあるはずが無い!」の一点張りなのよと。即座に蘇る記憶があった。27年前、その頃、桑沢デザインの学生だった彼はよく店に顔を見せていた。事情を説明して一週間後、女史と共に来店した彼は、まるで同窓会の如く懐かしみ、味が変わらぬ事に驚き、浸りきるほどに種々の料理を堪能してくれた。女史の面目躍如の然ることながら、時を超えて紡がれる味の記憶の絆に万感胸に迫る思いであった。後日、彼はホームページ「心霊現象」のブログで店の存在を語り、新たなる客層を増やしてくれた。

「岸朝子が選ぶ名店 ラ・カシータ」
料理には性格が出るとよく言われる。実際、同じレシピでも作り手によって味が微妙に変化するものである。ましてや、創作料理ともなれば如実にその傾向が現れる。伝説の「料理の鉄人」の収録時に印象的な出来事があった。与えられた1時間の枠内で、題材の「マンゴー」をお互いにできうる数の全ての皿に使い込まなければいけないルールである。調理スタートの合図の声に、駆け登った壇上に山積みされた厳選のメキシカンマンゴー、フィリピンマンゴーはどれもが芳醇な香りを放っていた。皮を剥ぎ、実を取り出す作業の中で、一瞬、頭に過ぎったのは、使う量を適度に判断しないとマンゴーだけが主張する危険性の思いであった。他の食材との配合バランス、加熱の具合、何もかもが現場の裁量に委ねられていた。失敗したらやり直す時間は無い、緊張を超えて自身の気持ちは「美しい皿に仕上げてあげる」の楽しみに変わっていた。終了1分前に出来上がった6品は、アワビのテキーラ蒸しにアボカドとグリーン・チリ、マンゴーを合わせたソース、食用サボテン入りのマンゴー炊き込み御飯にチレ・ハラペーニョとトマトのソース、松の実、マッシュルーム、マンゴーを刻み込んだ赤ピーマンの豚肉詰めにチレ・チポトレのソース、牛フィレ肉のマンゴーモーレソースにマンゴーで練った生地のトルティージャ添え、フレッシュマンゴーとテキーラのライム入りカクテル、デザートはマンゴーの胡桃ソースがけ、どれもが新しい友達(マンゴー)を迎え入れたメキシカンテイストに成り立っていた。
審査は放映では2分程に編集されたが、40分かけて丁寧にそれぞれの献立にコメントが語られた。岸朝子先生、加納典明さん、高田万由子さんら委員は個性ある唐辛子の持ち味に驚き、味の妙味に感動し、全員一様に辛いばかりと思っていたメキシコ料理がこんなにも味わい深いものだとは思わなかったと評してくれた。一方の鉄人、神戸勝彦氏はその卓越した技量と調理センスで満点を獲得したが、どの皿も攻撃的過ぎるとの言葉も出た。2点差で終結した勝負はともかく、マンゴーを制した充足感に浸りながら帰ろうとした時のことだった。「渡辺さん!」、後ろから呼び止めたのは岸朝子先生。「あなた、覚えてらっしゃる?20年前のこと」。何のこと?聞けば、料理記者時代、当時のラ・カシータを取材したときの話で、「メキシコ料理の解釈で随分とあなたから説教されたの」とのこと。勿論、覚えてはいなかったが、その頃、年間40〜50件程度の取材相手には、かなり攻撃的、且つ、威圧的に立ち向かっていたと記憶している。岸先生は「でも今日の料理はどれも優しい味で、全部美味しかったわ」とつぶらな瞳に笑みがこぼれていた。一週間後、先生が主宰する雑誌から[岸朝子が選ぶ名店]の取材依頼の連絡が入った。

「ラ・カシータでの葬儀」
美味しい食卓を囲む家族、メキシコ人は一家団欒を大切にする。午後の食事が正餐の習慣であるメキシコでは昼の休憩が3〜4時間あり、仕事場から家に戻り、それぞれの祖父母、父、母、子供達が揃って、多い家庭では10数人が和むひと時を過ごす。子供の誕生日ともなれば、そこにご近所が加わり、イベントさながらの光景が日常茶飯事である。家族や近隣愛の絆は人間が生活を営む、最小にして最大の心の拠り所と感じてきた。帰国して、ラ・カシータを創業した頃、お客様に対するスタンスはそうありたいと願っていた。いつの日か時は過ぎ、顧客との親愛も深まり、近来では3代に渡って孫まで連れてこられる方々も多くなった。30余年の店の道程に帯同してご自身の人生の一環を重ね合わせている風にも見受けられれる。そんな折、かかってきた電話に驚いた。2006年、夏の事であった。なんとラ・カシータで葬儀を行ないたいとのご依頼であった。遠慮がちに「可能でしょうか?」と受話器の声は尋ねていた。無論、曾て経験の無い要望に戸惑いはあったが詳細を伺うと、親戚はちゃんとした斎場でやるべきだと猛反対しているが、亡くなられたご主人が店が大好きで、家族で食事をした時間が一番思い出深く、故人が一番喜ぶ場所で偲びたいとの主旨だった。
後日、ご子息2人と共に来店された夫人は開口一番、「お願いします!賛同しない親戚共は参加しなくていいんです。」と話し始めた。その強固な気持ちに思わず、「ご主人は何がお好きでした?」と聞いてしまった。自分の献立はわが子のようなもの、愛おしく思われたなら、大満足である。「やりましょう!」即断だった。1ヶ月後の当日、店には黒い幕がかかり、テラスに設えた溢れんばかりの花の祭壇には故人縁の品が並び、中央には大好物だったメキシコの卵料理、ウェボスランチェロスが置かれていた。読経の後、式典が進行する中、好きだったラテン音楽の選曲が流れ、ワカモーレ、ケサディージャ、海老のにんにく炒め、エンチラーダス等の好物メニューが参列者、約60人に提供されていった。遺影の前で一人ひとり、交互にマイクを持ち、思い出話を語る姿に、承諾して良かったと私自身の心も安堵していた。人の命に限りはあるが、時空を超えて脈々と受け継がれてゆく行程に、メキシコ料理の味の記憶だけでは無く、家族が集う幸福感が寄り添うものだと実感した。晩秋の頃、遺骨はサンフランシスコ、ゴールデンブリッジにて散骨された。

TV番組「愛の貧乏脱出大作戦」
仕事柄、TVの料理関連のものはよく見るほうだ。1990年代の番組の一つに「愛の貧乏脱出大作戦」があった。ご記憶の方も多いと思うが、流行らない店の料理人を厳しい修行で教え込み、繁盛店に導く名番組である。怒鳴られたり、叩かれたり、余りの辛さに逃げ出しても、周りの適切な助言や本人の切実な嘆願で、何とか這い上がり、ようやく達人のお墨付きを貰い、改装費も局持ちで再会した店は初日から多額の売り上げを示し、視聴者の感動を呼ぶラストシーンが定番だった。ある日のこと、突然の出演依頼の連絡に私は戸惑いながらも、「ラ・カシータの厨房は和やかな雰囲気なので番組の主旨には適しません。」とお断りした。2度目の電話も同様に「他の店でやって頂きたい。」と申し上げた。しかし、どうしても渡辺さんにお願いしたいとしつこくかかって来るので、訳を尋ねると、当人はメキシコ人で、しかも、閉店に追い込まれている状態だと・・・。どこの誰だか知らないが、メキシコ料理の発展には由々しき事、持ち前の使命感が鎌首をもたげて来た。一度お話をお伺いしましょうと、後日、スタッフに見せられた彼が作るタコスやスターダスの写真は、案じたとおり、トルティージャも具材もサルサもいかにも不味そうだった。その瞬間、奇妙な責任感に揺さぶられながら私は決断した。
動き始めた救出作戦の意見の一つでチョリーソ(腸詰め)を希望したディレクターにある提案をした。本国と同じものは難しいので、出汁の旨みが出る3種類のメキシコ唐辛子とニンニクをそれぞれソーセージの叩いた肉に練り込んだ、独自の創作性があるものを作ろうと。清里高原にある専門の工場で調理修行を終えた彼が持ち帰った腸詰めは素晴らしい出来映えだった。彼の名はゴメス・ヘスース、愛する日本人の奥様と可愛い3人の娘のために死ぬ気で頑張ると約束してくれて、収録は早朝7時からスタートした。大学の学生食堂での体験しかない彼の包丁技術は未熟で、サルサやトルティージャの基本的な事から教えながら、数種類の定番料理と腸詰めを使ったオリジナルの一品が完成したのは、日付が変わった朝の4時だった。営業しながらの指導はたいへんだったが、その間、カメラは止まらず、スタッフ一同の根気に感心した。試食で判断される本番のスタジオでは、ゲスト達の評判も上々だった。「まだまだ」はブルーで、「もう大丈夫」はオレンジで行く末を判定する参列者の意見は、全員一致のオレンジだった。店名を「バレンケ」と名付け再スタートした当日、それまで月商7万円くらいの売り上げが、その日だけで14万円を数え、その月から毎月300万円以上を記録するようになった。後日談だが、関係者から、番組史上初めて優しい指導だったと声が寄せられたと聞かされた。

メキシコ料理の「街の巨匠」
1993年、初夏の頃だった。料理番組としては現在も異例の長寿を誇る「チューボーですよ」のスタッフから出演依頼の連絡を受けた。お題は「牛肉のタコス」、心が弾んだ。初めてメキシコ料理に照準を合わせ、着目してもらった事に感謝しつつ、打ち合わせが進む中、「他の店はいったいどこが選ばれたのだろう?」と少し気になっていた。複数のコーチが携わる形式の制作状況の下、店の名も、使われる食材の構成や味付けの組み立てに関してもお互いの店の情報は知らされず、個別の店舗ずつロケが行なわれ、更に後のスタジオ収録時にも、どの店の方法がベストとされるのかもいっさい明かされない。ある意味、テストを受けるような心境になっていた。撮影の当日を迎えると更に驚いたことに、照明、音声、カメラマン、リポーター達、それぞれ10人以上のスタッフが取り囲む状況で、調理指導のコメント、食材を扱う手元のアングル、カメラの位置等を細かく変え、丁寧に何度も繰り返す。サルサを作り、トルティージャの生地を練る、伸ばして焼き、炒めた牛肉を乗せる。普段なら30分もかからないことが、終了した時点で実に7時間を経過していた。一ヶ月後の放送を心待ちにして充足感に満ちた疲労を感じながら収録は無事終了した。
この番組では和食、中華、洋食、イタリアン等、歴代の名シェフ達がそれぞれの技を数多く披露してきたが、メキシコ料理業界にはどんな「街の巨匠」がいるのか?生意気なようだが、お手並み拝見とばかり楽しみに放映を見た。他の店も基本に忠実に再現を試みているが、堺正章シェフが進行している手順は、そのまま、ラ・カシータのレシピが取り入れられている。特にトルティージャを作る行程の部分では、他店を圧倒して我が店の厨房が取り上げられた。思わず嬉しくなった。自分はスタジオにはいないが、まるで共に作業をしているような錯覚に陥るほどだった。このまま進めば美味しさに確信が持てたが、もう一つの難関がある。ゲストが果たして幾つ星をくれるのか?堺シェフの技量とセンスに任せるしか無い。判定の時が訪れた。ゲストの口からこぼれた言葉は、「初めてタコスを食べたけど、こんなに美味しいとは思わなかった、三ツ星です!」気がつけば、TVの前でガッツポーズをしていた。その後、エンチラーダスや別種のタコスで2回出演する機会を与えられたが、両方とも他店の追随を許さず、店のレシピ通り作業は進み、それぞれの判定も星三つだった。番組史上の記録ですと後に局から知らされた。

“縁”時代を超えた店の存在
2000年、夏の頃、TBSからの番組出演依頼が舞い込んだ。人気絶頂の「はなまるマーケット」からである。先方の依頼は生番組のランチバトル、僅か制限時間10分で一品を仕上げる難度の高い企画のコーナーである。今回は自分ではなく、若手シェフにとの要望で、厨房を仕切る若干29歳の料理長、田中勝則を推薦することになった。メニューは本人の希望で短時間でメキシコらしさを演出できるワカモーレを使った、「ソーセージのレタス包み」に決定した。ワカモーレとは青唐辛子を利かせたトマトのサルサを作り、アボカドをペースト状に潰した中に混ぜ込んだ、代表的なソースである。意外な出来事が起こったのは、後日、訪ねてこられた2人のディレクターと食材、手順、店内ロケの打合せを行い、要旨をまとめ終え、2人が立ち上がった時だった。後方の客席から「おい!」と声が掛かった。後に訳を知ることになるが、声の主は「はなまるマーケット」の統括プロデューサー、最高責任者である。2人は驚いて「どうして、こちらに?」と尋ねたが「いいから!」と体よく追い返されてしまった。話を伺うと、「渡辺さんは覚えていないと思いますが、四半世紀前、TBSに入社した頃、初めてデートしたのがこの店なんですよ、だから気になって」との事。客とのふれあいが織り成す縁に時代を超えた店の存在が頼もしく思えた瞬間だった。
縁と言えば、番組の花である岡江久美子さんも当時、後に夫となる獏さんとよく来られていた。いまや伝説となりうる公園通りの店を発端として、旧山手通りを経由し、現在に至る、ラ・カシータは、その時折の時代の表現者達に囲まれ、メキシコ料理を要とした歩みの中で人間模様が育まれた。田中は多少緊張気味だったが、紹介インタビューも無難にこなし、調理がスタートした。許された時間は10分、もともと技量はあるだけに調理行程に心配は無かったが、思った以上に雄弁で驚いた。途中、お湯が沸いていないハプニングも難なくクリアーして見事に時間内で完成させた。岡江さんも「昔はこの店よく行ったのよ。」とのコメントを挟みながら試食タイムへ移行した。薬丸君を始め全員が口々に「美味しい!」と絶賛の声が上がり、評判は上々で番組終了間際にも、もう一度話題にのぼるほどのインパクトがあった。大成功である。放映後、丹精な顔立ちの田中に奥様族のファンが増えたのは言うまでも無い。

「味の記憶」
幼い頃から大人になるまで、人々に根付く食事における嗜好と云うものは、彼らが育つ地域、環境、時代背景によって多種様々に異なるものである。それぞれの家族の調理に留まらず、外食に見出される新たな出会いの感動、発見が生涯における味覚のアクセントとなって脳内に埋もれている。10年程前、その出来事に遭遇した。来店した30才くらいの男性は小柄な女性を連れ、少し緊張した面持ちは初めてのデートの様子が窺えた。何かを探るようにメニューを隈なく見続けていたので、お勧めの品でも説明しようと側に寄った時のことだった。「すみません、自分が小学校5年生の時食べた物が無いんです。」どんな一品か話を聞くと、思い出す献立があった。豚ロースの一枚肉をソテーして、微量の青唐辛子を効かせたトマトソースで絡めた「豚ロース肉のランチェラソース」と云うもの。食材は厨房に揃っていたので、再生は容易な事だった。出来上がりを卓に運ぶと、彼は手放しで喜び、「これだよ!これが旨いんだよ。」と連れの彼女に何度も大きな声を張り上げていた。彼の得意げな表情を眺めていると、およそ20年の時を超えた味の記憶にラ・カシータの足跡がもたらす意義を改めて感じていた。
そういえば、遡ること30年、俳優の宇津井健さんが初めて来られた時、同じようなことがあった。演技に必要な為、乗馬の修練でメキシコの牧場の留学した折、賄い婦のメキシコ人がいつも出してくれた料理が食べたい、「渡辺さん、出来ますか?」と3品要望された。内の2品、小海老とアボカドのカクテルと海老のニンニク炒め。これは当時のメニューに収まっていた。もう一つは細切りにした鶏肉とスライスした玉ねぎ、ビーマン、チレ・ハラペーニョを炒め合わせたものと、インゲン豆を塩で煮て、潰し、ラードで炒め直したフリホーレス・レフリートス、ワカモーレ(アボカドのディップ)を一皿に盛り付け、それぞれをトルティージャで巻いて食するFAJITA(ファヒータ)というものだった。チレ・ハラペーニョは当時まだ手元にはなかったが、ピーマンの内側にグリーンチリのペーストを擦り付け、少し辛さを補う手法を取って、間に合う食材でお作りしたところ、「この味ですよ、懐かしいなぁ・・・」と子供のような笑顔で満足げに頷いておられた。この時以来、常連客として何度も来られているが、オーダーはいつも前述のものである。

「宮本美智子女史とラ・カシータ」
1976年7月にラ・カシータを開業して以来、マスコミュニケーションの取材攻撃に恵まれた時代を過ごして来たが、初期のころはリポーターの思い込みに拠る勘違いで思わぬ記事になる事が多々あった。中でも印象的だったのは、1984年に刊行された文藝春秋社の「東京いい店、うまい店」に記載された原稿の冒頭に「日本に“本当のメキシコ料理”をひろめようと決意した京都外語大の卒業生四人組の一人、渡辺庸生の店」と紹介されたことである。確かにその当時、国内の数少ないメキシコ料理店の中で、神戸、大阪、京都に既存した他の3軒は交友関係にある京都外大の先輩方が関わってはいたが、お互いに示し合わせた事実は無かった。唯、このドラマチックな書き出しは余程のインパクトがあったのか、一般のお客様だけに留まらず、当の文藝春秋社の出版局に携わる編集関連の方々が、大挙して来店して頂ける事態となり、正に「瓢箪から駒」状態で、店は連日大盛況の日々を迎えてゆくことになった。そんな頃、編集部が連れて来られた一人に、時の人、宮本美智子女史がいた。文才豊かな彼女は多岐にわたって執筆していたが、ベストセラーとなった「ニューヨーク人間図鑑」は余りにも有名である。
人生のパートナーである日本有数のイラストレーター、永沢まこと氏の絵と共に綴られた前述の一冊は、活字であるにも係わらず、まるでライブ映像を見る感覚で捉えられる。因みに1979年に出版されたこの本の中に初めて「エスニック」という単語が登場する。ニューヨークに10年滞在した宮本美智子女史はメキシコ料理通として自認されてはいたが、有難いことに、ラ・カシータに出会ってからは発見の連続だと感激し、幾度も来店する度にお仲間に自慢するようになり、ついにはメキシコに旅立つことになる。現地で食べ歩いて来られた後も、「メキシコにも美味しいものがいっぱいあったけど、私はこの店の味がNO.1だと思う。」と語ってくれた。ニューヨークにあるザ・ニュー・ミュージアム美術館の国際部長を勤める彼女は、アメリカの美術誌に数多くの執筆をしているが、機会があれば、ラ・カシータのメキシコ料理の評論を書いてみたいなとも言ってもらえた。10年程前に亡くなられたが、屈託の無い精神で生涯を全うした彼女に敬意を表したい。頂いたサイン入りの著書と永沢氏直筆のメキシコ闘牛場のスケッチは今も大切に部屋に飾ってある。

「完全アウェーの山王ホテル厨房にて」
本国の伝統料理とTEX-MEXの違いについては以前に記述したが、現実はまだまだ厳しいものがあると実感している。店を継続して35年の歳月(2011年8月現在)を数えるが、つい先日もアメリカやフランスの方々から立て続けにクレームをつけられた。ナチョスやブリトーが無い、タバスコを置いていない、料理が全然スパイシーじゃないと双方ともかなり気分を害して帰られた。首都パリにある既存の店もUSAスタイルらしい。日本人のお客様には丁寧にご説明すれば理解を得られるのだが、思い込みの強い外国の方は権利の主張が激しく、なかなかスムーズには進まない。旧山手に開店して7年もたったころは世界各国のお客様に支持され、大盛況の毎日を過ごしていたが、それほどのトラブルはなかったと記憶している。おそらく、インターネットの情報検索の無い時代であったため、クチコミで味の評判が伝わり、顧客は期待感を胸に来店してくれていたはずである。とある日の事、長身のアメリカ人の男性からケータリングの話を持ちかけられた。自身が勤務するホテルで200人くらいの規模で計画していると。名刺の肩書をみて驚いた。山王ホテルマネージャーと記してあった。戦後、米国が管理する米軍関係者の為の施設で、成田を通関せずとも横田基地から直接入国して宿泊できる、日本人入管御法度の場所、正に敵地ではないか。断ろうと思った。
だが、彼の「こんなに美味しいメキシコ料理を皆は知らない、だから、是非、作って頂きたい!」との執拗の願いに根負けした。天現寺の交差点から六本木方面へ向かった左側にあるそのホテルに打ち合わせに訪れた私は、中の設備に、またもや驚かされる。映画館、ボーリング場、ショッピングセンター等、何もかもが揃っていた。料理長を紹介され、挨拶を交わし、いい機会だと思って、オーセンティックなメキシカンの実体を説明し、いっしょにやりましょうと協力を仰いでみた。意外に冷たい返事が返ってきた。場所だけを提供するから勝手にやってくれと。初めての調理場、ましてや他人のもの、やりづらいこと此の上無い。当日、スタッフ8人を引き連れ、広い厨房の一角で仕込みを始めた私達に無関心を装う現場は、完全アウェーの張りつめた空気が流れていた。前菜、軽食、メイン料理、およそ10品目の献立を順に会場に搬送し、盛り付けが終わろうとした頃だった。ふと振り返ると料理長がいた。「いい匂いだね、全部美味しそう」と声をかけられた。20才くらいも年の違う若造がどれだけ偉そうにと思われていたみたいだが、そこは同じ調理人、仕上がった皿が全てを物語るのか、いきなり、握手を求められた。心の中に何とも云えない安堵感が広がっていった。

「料理店の定評を得る指針〜夢の実現〜」
料理店を志した限りは味の旨さを誇示したいのが料理人としての本音であろう。そこには万人が期待する一定水準を遥かに上回る現実を突き付け、相手に思わぬ感動と発見を知らしめる結果に導くことが求められる。だが、「言うは易く、行うは難し」でなかなか思い通りにゆくものでは無い。旧山手通りに開店した頃、自分自身の力量には確信があったが、果たしてそれが通用するものかは、手探りの状況の日々が続いていた。定評を得る指標として、当時、一つの憧れがあった。それは美食を追及する雑誌のページやTVの料理番組のコーナーに取り上げてもらう夢だった、その頃の時代風潮はフランス、日本、中国料理が主で、たまに洋食、インド料理が挟まれるくらい、イタリアンでさえも皆無に近い取材範囲で構成されていた。そんな折、毎日新聞社からの一本の電話が幸運を告げて来た。グルメ評論の第一人者、荻昌弘氏が連載するサンデー毎日の一頁の取材依頼であった。タイトルは「味で勝負」。全国津々浦々の覆面取材の下に候補が上がり、荻先生らが試食に出かけ、OKがでるとようやく編集部とご本人が動く、実に選考基準の高いものだった。時は1980年の春、この大きな出来事が更なる好運を呼び込むことになる。
テレビ東京の看板料理番組「すばらしい味の世界」からの撮影依頼は、その年の初夏の頃だった。超一流の店しか選ばれない、正に雲の上の存在からの知らせに驚きを通り越し、厨房のスタッフ全員は沸き立っていた。後日の打ち合わせで7回の放映分、前菜、軽食、一品料理まで計7品目を決め、収録の当日が来た。都内のスタジオを貸し切り、静寂の中、カメラは回り始めた。最初の献立は、蛸のレモン漬け。お茶っ葉でボイルした真蛸を薄切りにしてレモン果汁に浸したものに、玉葱、青唐辛子、トマトを粗微塵に切り、オレンジ果汁、青采と共に混ぜ合わせ、塩で調味する。トマトを主に玉葱、ニンニク、青唐辛子を加えたサルサを作り、とうもろこし粉を練り、薄く円形に伸ばし、トルティージャを焼く。数種のチレをラードで焼き、ゴマ、アーモンド、干し葡萄、チョコレート等でモーレソースを仕上げる。トルティージャを三角に切ったものをラードで揚げ、トマト、鶏肉、チーズで煮込む。牛フィレ肉を帯状に切り開いたものを塩で焼き、アボカドが主のワカモーレを添える。汗をかくほどの照明の中、全ての工程にカメラはアップで迫り、音声マイクは海老がフライパンの油に跳ねる音、下駄を履かせたまな板で包丁が食材を切る小気味よい響きを捉える。朝一番に始まった撮影は気がつけば夜になっていた。調理音を重視した伝説のこの番組を超えるものは今も無い。

「トルティージャの焼き方を教えてくれませんか」
1990年代ほど、わが国で料理人が持て囃された時代は無いのではないだろうか。TVの各局は早朝から深夜まで連日のように料理番組を放映し、ワイドショーやバラエティ枠にも特選コーナーを組み込むほどに視聴率を競っていた。こんな現象は世界でも例が無いと当時の取材で聞かされた覚えがある。思い起こせば、学生の頃、アルバイトをしていた神戸のレストランのシェフに「将来は調理人になりたい。」と夢を打ち明けたところ、厨房の職人全員に囲まれて、「バカな事は考えるな!」と一喝された。職業に貴賤の区別は無いはずだが、この時代の調理人の社会的評価はまだ低かった。大学まで行っているのにと、自分たちの給与明細まで見せて、過酷な就労状況を話され、考え直すよう強く諭された。1970年の秋の出来事だった。あれから時は流れ、まさかこんな世が訪れるとは、自分を思いやってくれた先輩達にも想像出来ないことだっただろう。90年代はバブル経済が崩壊し、企業の安定性が揺らぐ中、手に職を持つための各種専門学校が見直される風潮に代わっていた。その頃、絶大な人気を誇っていた日本TVの料理番組、「どっちの料理ショー」から出演要請の依頼が舞い込んだ。この番組は、似て非なる2つの料理を取り上げて、特選素材を軸に思い切り贅沢な皿に仕上げ、両方食してみたいが、どちらか一方にゲストの多数決で決まり、少数派はお腹を空かせたまま見守るという残酷な状況でラストを迎える、未練たっぷりの筋書きで毎回構成されていた。
品目は「生春巻き」VS「タコス」。スタジオでの調理人はエコール辻東京の教授達。大阪あべのに本校を持つ、料理学校の東大とも称される辻調理師専門学校の東京本陣の要達である。自分の役割は番組進行の中でタコスの醍醐味をアピールする「美味しい応援団」のロケ部分であったが、以前からひとつ心に抱えているものがあり、どうしてもそれを云わずにはいられなかった。店の厨房で収録が進む中、製作スタッフにお願いをしてみた。数年前の「太巻き寿司」VS「タコス」の放映の際、トルティージャもサルサもワカモーレも全然美味しそうで無く、納得のゆくものでは無かった、一度教授に逢わせて頂けないかと。数日後、スタッフと共に来店した担当教授にタコスを食してもらい、生地の重要性、唐辛子の的確な使用法、食材の成り立ち等説き、王道のメキシコ料理の表現を真剣に嘆願していた。TEX-MEXに偏りがちな思考経路に一石を投じないとの思いに強く駆られていた。1時間も過ぎた頃、教授が口を開いた。「厨房でトルティージャの焼き方を教えてもらえませんか。」失礼な言い方だが、この時ほど相手が可愛く思えたことは無い。放映当日、教授が作るタコスはいかにも美味しそうで番組は最高潮の盛り上がりで終結した。

共立女子大の授業名は「国際文化持論―食文化を考える」
旭屋出版からの2冊目の依頼は当初、タコスとサルサだけを簡潔に纏めたい意向で編集会議が行われた。ページ割りの分類が進む中、胸の内に込上げるものがあった。それは主食であるトルティージャを基点とした歴史的背景における地域性である。1冊目はメキシコ全般の代表料理を網羅した内容であったが、もう少し掘り下げて、一体いつ頃からトウモロコシや唐辛子が出現し、どの地域でどんな種が根ざし、それぞれの集落に根付いたタコスの成り立ち、時代とともに変貌した具材の妙味、大地の恵みに培われた各々の食材の活用等、調べてみたい項目は山ほどあった。アメリカ穀物協会やメキシコ大使館を通じて農林水産省の資料をいただき、蔵書を軸に検証を追い求めた結果、近代の料理の一皿ごとの生い立ちが解明され、約1年の期間を要したが十分満足のゆく専門書に仕上がった。その2か月後、来店した妙齢の婦人から「渡辺さん、貴方よく勉強してるわね。」と言葉をかけられた。黒田悦子と名乗る女性の身分を明かされて驚いた。国立民族博物館の名誉教授の肩書、東京大学のメキシコ民俗学の現役教授とある。同行のもう一人の教授に「貴方もこの本、買いなさい。」と購入を勧めるくらい褒めていただけた、光栄、身に余る瞬間の出来事だった。
半年も過ぎた頃、その相手の教授から電話がかかってきた。なんと授業をお願いしたいとの要望である。場所は共立女子大学、国際学部の本館。大学の特別講師の役割など思いもよらないことだったが、弾む心で快諾した。当日は料理人への気遣いか、学部長らと近所の店でランチも予約されていた。神保町のあたりはカレーの店が多く、その中でも漫画「美味しんぼ」にも登場した名店に案内された。美食の馳走を受けた午後、総勢67名の3年生の生徒、教授数名も加わった教室で講義が始まった。授業名は「国際文化持論―食文化を考える」。如何にも仰々しい表題だが、普段通り臆することなく話は進み、一人として睡眠をとる者がいないまま90分の時が過ぎた。チャイムが鳴ったので「これで終わります。」と頭を下げた時だった。思いがけず全員から拍手が巻き起こった。意外だった。数々の文化セミナーでは経験したが、まさか大学の授業で・・・。嬉しかった。その気持ちが「有り難う!みんな、内定を貰えなかったり就職活動は大変だろうけど、今こそ自分の疼きに気付いて仕事を探して下さい。」と励ましていた。再び大きな拍手に包まれた。感無量である。終了後、教授室に何人もが質問に訪れた。

「胸に残る常連客の笑顔」
飲食店を営む上で、「お客様は神様」と崇め、顧客名簿を作成し、勤務先、趣味、好み等を了解しているのは常識。ましてや、数十年の常連客ともなれば相手の素性を充分に把握し、長期間我が店を熱愛していただける気持ちへの感謝を込めて、より一層の接客に心掛けるはず。ところが、私の場合、誠に申し訳ない事実だが、殆んどの顧客の氏名、職業等を認知していない。家族や友人と食事に来られた方々と名刺交換など皆無に近いし、電話で予約を受けると名字くらいは判るのだが、目前の皿に没頭されている相手に立ち入る詮索の話には発展せず、大抵は料理の味自慢かメキシコ食文化の講釈で盛り上がってしまう。この30余年の間、この連載で記述しているエピソード等で話題には事欠かないままに顧客との連携は継続し、今更、私的な情報を聞き出せない事態に陥っている次第。唯、何かの切っ掛けで、相手の立場が判明し、びっくり仰天する場合も多々あった。2002年の夏も終わる頃、顔馴染みの外国人が来店した。国籍(たぶん北ヨーロッパ)も名前も不明だが、20年以上の常連で、一時期は毎日のように来られていた。食事の最中、珍しく席に呼ばれ、相談を持ち掛けられた。自分の企画しているイベントに出店して欲しいとの依頼だった。
その催しとは「electraglide」。毎年、幕張メッセで行われるテクノポップのライブコンサート、約2万人のファンを終結させる大イベントである。想像を絶する規模の話に訳を尋ねてみると、前回までのアーティストの評判は上々だったが、飲食のブースは不味いと散々の不評の嵐。「そこで今回は自分が美味しいと思う店ばかりを選びたい、厳選8店舗の中で、第一候補がラ・カシータです」と力説された。店のスタッフとの協議の結果、「若鶏と野菜のタコス」1種に絞り、2か月先の開催へ向けて準備が始まった。一晩に数千人もの客を相手にする仕事は未経験だが、味を絶賛された限りは妥協は許されない。アルバイト人材の確保、調理機材のリース、飲み物、食材の大量発注、決め手のサルサ・チポトレの仕込みだけでも400リットルを遥かに超える。当時のスタッフ達の絶大な結束力の元、無事当日を迎えた。店に残留部隊を残し、未知なる偉業への闘志に燃えながら会場へ出発したのが午前10時、ブースでの装備を整え、夜6時の開演を待つ。休憩タイムの瞬間、一度に数百人の列が並ぶ、手渡しで、分刻みでこなす作業が限りなく続く。幾度も押し寄せる大波を乗り切り、終了したのが、午前7時。本部からの報告は集客も売り上げも他店を押さえ、第1位を獲得していた。その後、店を訪れた彼の賞賛の笑顔がまだ胸に残っている。
メキシコを旅立ち日本で成熟した唐辛子「栃木三鷹」
メキシコ料理の要として君臨する唐辛子の類は、自国だけでも優に100を超える。1492年、コロンブス上陸後、海を渡ったそれらは今や全世界に分布し、姿形を変え各国に子孫が繁栄している。我が国でも数多くの種が現存するが、中でも「鷹の爪」の名称で知られる赤唐辛子が最も一般的ではないだろうか。この種の最高品質を誇る「栃木三鷹」を生産している、栃木県、大田原市。「とうがらしの郷づくり推進協議会」が発足して以来、毎年「全国とうがらしフォーラムin大田原」のイベントが行われている。調理のお誘いを受けたのは、2010年の夏も終わる頃。例年、調味料や製菓等、製品化されたものを中心にアピールしてきたが、今回はメキシコ料理で三鷹の個性を表現して頂きたいとの依頼だった。食材のサンプルを味わった時、望郷の念にかられるかのような思いに身体が反応したのは、本国から旅立って立派に日本の地で成人した唐辛子の熟成の旨味だった。メキシコ伝来の香りや持ち味を覗かせながら、大田原の地の姿に熟成していた。心が弾んだ。これだったら地域カラーの独創性溢れる数種のサルサが活用出来ると確信が持てたのである。100人余の招待客を賄うには、前日からの仕込みが不可欠。胸の高鳴りを覚えながら当地へ向かった。
その日の夜、宴会場の料理長以下、調理スタッフ5人の協力を得て、無事準備が完了した時点で厨房には美味しそうな匂いが漂い、味見を求める関係者で賑わっていた。当日。市長を初め、農学博士の松島教授、善光寺の七味でお馴染みの(株)八幡屋五郎の社長、ハウス食品の商品開発部、流通業所、地元の生産者等、そうそうたる顔ぶれが揃う会場と厨房をTVカメラで中継しながら宴は始まった。一品出し終えるとカメラに向かい、食材の特徴と配合のバランス、大田原の唐辛子の持つ性質と味わいの妙味、メキシカンのレシピの中で融合する和風の成り立ちをそれぞれに解説をしてゆく。地産の豚や牛、鶏肉、卵や数々の野菜類を駆使した献立は出席者全員を魅了したようで、調理後、広間へ顔を見せると盛大な拍手に包まれた。壇上でメキシコの唐辛子文化を語り、質疑応答に入ると矢継ぎ早に質問が相次いだ。流石に関心の高いメンバーが揃う中、丁寧に全てをお答えし、会は終了した。気がつけば、朝、宿で食事をとってから夜まで何も口にしていなかったが、不思議と身体は充足感に満ちていた。近い将来、大田原発信の独自のサルサが地元に根付くことを願ってやまない。
メキシコ料理に対し、いまだ精進の気持ちは衰えず・・・
メキシコ料理を考察するにあたって、僭越ながら自著以外に日本語の参考資料が乏しいのは寂しい限りではあるが、その分の重責を踏まえて、まだまだ精進する気持ちが衰えないのは恵まれた事例かもしれない。料理教室や地方への調理指導の出張等、必要とされれば所構わず己の力を存分に発揮して、開拓してゆける意欲は充分に備えている。高校の課外授業のお願いを受けたのは、2002年2月に最初の専門書を刊行してしばらくの頃だった。学校名は千葉県立松戸国際高等学校、県内屈指の名門校である。依頼はメキシコ料理を味わいながら食文化の歴史を学ぶ内容で、聴講生は学内サークル調理部の面々だった。季節は夏の訪れを感じさせる週末の午後、顧問の先生、部員、総勢20余名を対象に前菜、軽食、一品等、全て伝統料理に基づいて、時代的背景、地域における食材の特性、スペイン人の到来に由来する融合性、近代メキシコとアメリカ合衆国との交戦における歴史的侵略の影響等、約3時間の講義が終了した時点で、先生、生徒達の目は見開き、食事を遂行する事も忘れてノートに見入っていた。質疑応答にも向学心に燃えた質問が相次ぎ、半ば興奮状態で彼女達は帰路についた。濃密な授業に心を動かされたのか、この出来事が次につながるとは思いもよらなかった。
夏も過ぎた頃だった。顧問の先生からの連絡は「あれから生徒達は盛り上がっており、是非、秋の文化祭でメキシコ料理のフルコースをやりたいので調理指導をお願いしたい、遠い所ですが来て頂けますか?」とのお話だった。快諾した私はスタッフ1名を従え、当日の朝、上野から常磐線を経て新京成線八柱駅に降り立った。構内の調理設備は想像以上に整っており、下級生も含めた部員30余名に対する実習がスタートした。サルサや献立に使う野菜や唐辛子の下処理、メキシカンライスの調理工程に必要な米を油で揚げる下準備、トルティージャ生地の丹念な練り方、それの応用、活用法、鴨煮込み用のサルサの仕込み、デザートの作成等、日曜日丸一日を費やした時間は気がつけば10時間を超えていたが、生徒達の完遂した充足感の笑顔に疲れも忘れていた。彼女達の貴重な小遣いから捻出された心付けのギャラも受け取るのが申し訳ないほどの拍手と歓声の中でなし終えた講習の成果は、後日、招待された本番の会場に見事に表現されていた。料理の出来映えも完璧だったが、所狭しと張り巡らされた蘊蓄を披露する紙には、講義を充分に理解した知識が説かれていて、文化祭ならではの意味のある経験だった。この時の先生や生徒達は今でも店に通ってくれている。
学術書「トウガラシ讃歌」へのお手伝い
唐辛子の習性は実に柔軟で逞しく、強かだが、時には甘え上手でもある。コロンブスが発見した新大陸からヨーロッパ、アジアにもたらされた食材は唐辛子以外にじゃが芋、トウモロコシ、トマト等があるが、他の野菜と比べておよそ100年も経過しない期間で世界中に根付いてしまった実績と共に、各国の料理に欠かせない脇役として実在している。温暖な気候のメキシコから北欧に居住するとなれば、人間もそうだが身体に脂肪を貯え、コートも羽織りたくなる、それがパプリカ、熱帯の南インドではTシャツで過ごせるように細長く、薄皮にと適応能力抜群の生き様である。又、逆境に強く、タイや韓国、中国四川のような条件の悪い場所ほど(メキシコも石灰質の土壌)己を叱咤激励し、旨味を含んだ持ち味や、より個性の強い辛さが備わるように成長する。肥沃な土地の我国では過保護というか、幼いまま成人したようなものが数多く見られる。又、その強烈な辛味のため、獣は食さないが、痛覚の無い鳥類が常食とする事によって、より遠くの区域に分布された実情が今日の繁栄をもたらせたものと考えられる。国立民族学博物館名誉教授の山本紀夫農学博士から執筆依頼の便りが届いたのは2009年の夏の頃だった。
題名は「トウガラシ讃歌」。企画の趣旨は主食になることの無い唐辛子が世界各地の食文化に融合し、各地の食卓革命に果たした役割を歴史的受容と共に考察したいとの意向が記されていた。構成員を見て驚いた、何かの間違いではないか?総勢20名の執筆者の殆んどが農学、文化人類学において国立大学の博士課程修了の現役教授ばかりである。電話を手に取っていた。「本当に僕で良いのでしょうか?」優しい言葉で返事が返ってきた。「是非、宜しくお願いします。」と。身に余るどころか、天地が逆さまになるほどの光栄な出来事に身体は久々の緊張感と闘争心に漲っていた。ある程度の知識には確信があったが、限られた原稿文字数の中に集約した、ベストの仕上がりに書き上げたいとの思いに検証の日々が始まった。およそ3500年を遡る古代文明に培われた集落における栽培から、多種多様な唐辛子が群生し、マヤ、アステカの古典期には、その地域に根差したそれぞれの種が人々の食を支えていた。提出後、山本教授から満点の知らせが届いた日は、安堵と共に達成感が湧きあがってきたのが記憶に新しい。諸外国にも類が無い、全世界を網羅した唐辛子の学術書のお手伝いができた経験は私自身の誇りでもある。

ラ・カシータの献立作りの原動力となった食材との出会い
1976年、初夏の頃、私は渋谷、公園通りの店の開店準備で慌ただしい日々を過ごしていた。たった7坪のスペースだが、初めて誰に遠慮もなく自分の料理スタイルが提供できる場所、調理に関しては自信はあったが、内装を含めてフロンティアースピリット溢れる美意識の空間にしたいとの想いに心は躍っていた。とは言っても有り余る資金がある訳でもなく、さてどうしたものかと思い悩む毎日が続く。そんな時、相棒の高木君から提案が出た。安価な廃屋の木材を譲り受けて、梁や垂木はテーブルに、太い柱は分断して丸イスにというアイデアに感動すら覚えて賛同した。調べてみると、経費はほぼ運搬費だけで資材はタダ同然の価格で扱われていた。そして、床を敷き詰めたのは、JR(当時は国鉄)から買い付けた古材の数十本の枕木、1本、800円の出費だった。1坪の厨房から配善口を支えるのは、木製の電信柱。これには訳があって、もう時効だから許していただきたいが、資材を運ぶ途中、偶然、道路に横たわっていた古い電柱を無断で拝借したもの、後にNTT(当時は電電公社)から軽いお叱りを受けることになった。照明はアンティークなビードロガラスの傘を被った白熱灯、極めつけは天井付近を巡り回る、電動の鉄道模型。全て彼のプロデュースだった。
メニュー構成において、一番難儀したのは、唐辛子。その頃の輸入食料品店にはメキシコ産は皆無で、たまに見つけても米国産の不味いものばかり、かといって我国の青唐辛子では香りも旨味も追いつかない。お手上げ状況の中、悶々と眠れない夜が続いた。気分転換に横浜に買い物に出かけた日のことである。ふと立ち寄ったインド料理店でカレーを注文した時に閃いた。ここなら上物があるはず、意を決して分けてもらえないか、お願いしてみた。突然の申し出に店のスタッフも戸惑いながら、経営者に聞いてみると答えてくれたが、返事はNOだった。それから、都内、横浜のカレーを提供している専門店を軒並み訪ね歩く日々が始まり、殆んどの店舗に断られ、やっとOKが取れたのは日本レストランが経営するカレーハウス「BOLTS」だった。熱意が通じたのか、「少量でも必要な時にいつでも買いに来てください。」と優しい言葉をかけて頂いた。本国の青唐辛子に匹敵する旨味を兼ね備えた食材との出会いは、ラ・カシータのサルサ・メヒカーナやサルサ・ランチェラの基盤となり、その後の安定した献立作りの原動力として全体を支えてくれた。時代は移り変わり、多彩なメキシコ唐辛子が入手し易い状況にはなったが、現在もこの会社とは親交が続いている。

“三笠宮殿下婚礼の儀”当日と重なった撮影の思い出
ラ・カシータを旧山手通りにOPENした1978年頃の代官山にはファッション界を先導する「BIGI」や究極のサンドイッチの伝道師を誇る「トムズサンド」、古着の革命児の帝王、垂水さんが発信する「ハリウッド・ランチ・マーケット」、日本に本場のイタリア料理を知らしめる起爆剤となった「パパ・アントニオ」、建築界を震撼させた芸術大賞の「ヒルサイドテラス」、それらすべてが店の真横、真向かいに位置していた。偶然の恩恵にしては余りにも恵まれた環境に、その頃の自分はまだ気づいていなかった。メキシコ料理の王道を伝えるべく、頑なに邁進していた私には周囲がまったく見えていなかったのである。舞台、映画、TV俳優、音楽、製作、アートの世界の各著名人が来店しても、誰彼の区別無く、徹底したスタンスで応対していた。結果的にはそれが功を奏する事になるのだが、綿密に作戦があった訳では無い。当時、道路を隔てて向かいの奥に住んでいらした愛川欣也さんも常連客の一人で、毎週のように来訪されていた。1980年の秋の頃だった。愛川さんから「マスター、今度ラジオのパーソナリティーの仲間とトーク番組をここでやりたいんだけど、どう?」と打診された。
「皆、美味しいメキシコ料理をまだ食べた事も無いし、店の宣伝にもなるよね。」と懇願され、引き受けたその番組は、絶大な視聴率を堅持していた、あの朝のワイドショー「小川宏ショー」。しかも生中継。撮影に向けて周到な打ち合わせが始まった。午前の店を借り切っての段取りは、早朝6時からの中継車の到着後、歴代のディスクジョッキー10名が囲めるテーブルセッティング、3台のカメラ位置、2時間の放送枠を支えるメニュー構成、スタジオとの連携等、準備は万端だった。一大アクシデントが起こる。宮内庁発表された報道で、髭の殿下の愛称で知られる三笠宮殿下の婚礼の儀が撮影当日と重なったのである。さあ、局は大慌て。急遽、二元中継に方針決定、厳かに進行する皇室の式典と愛川さん達によるラジオ放送の持つ醍醐味と意義をテーマに盛り上がるフリートークが交互に放映されたのである。後日、ラ・カシータは皇室と関わりがあるという思いもかけない噂が広まった。後年、読売新聞に掲載された愛川さんの執筆されたコラムの文面に「11PMの取材で訪れたメキシコで食したタコスより、ラ・カシータの方が美味しい」と記述して頂いた。現在も親密なお付き合いが続いている。

メキシコ料理はウツにならない
ラ・カシータのお客様がお食事の後、それぞれに口にする言葉に象徴的なフレーズがある。通常、飲食店の帰り際は「美味しかった、又、来ます。」が常套句のはず。勿論、自慢ではないが、殆どの来客がその状況である。唯、それに加えて常連の方々に留まらず、新規の来店の際にも「何か元気になる!」を幾度となく耳にする。美味しい物を食すれば確かに感動もあれば、身体も喜ぶ。充足した満足感に浸る幸福もあろうかと思う。だが、時の経過に伴い、年齢に応じて好みも変われば、同じ味に飽きたりもするのが本来の解釈であろう。30年以上の顧客達が何度もそう感じるのはいったい何故だろう?料理の中に精力剤等を混入している訳でも無いし、食材の味付けは塩のみで調理する基本は先住民伝来の姿であり、真相はずっと謎のままであった。2003年の初春の頃だった。テラスの席で盛り上がっていた6人グループの一人が話しかけてきた。「全部美味しいですね、都内で一番だと思いますよ。」悪い気はしなかった。何件か食べ歩いた中で誉めてもらえるのはいつも嬉しいものである。ニューヨーク帰りだというその大柄な青年が意外な事を話し始めた。「僕、今秋にメキシコ料理の小説を出版するんですよ、タイトルは「メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか」です。」
彼の正体はドリアン助川の名でバンド活動や執筆、ラジオ、TV、朝日新聞紙面での人生相談等、多方面で活躍している実力者だった。彼の話によると、我が国の深刻な現状である鬱病と自殺の問題を追いかける内にメキシコ料理に行き着いた。3年間のニューヨーク滞在中にそれを軸に書き上げた小説だと、簡単に説明してくれただけでその日は別れた。訳がわからなかったが「メキシコ料理はウツにならない」と聞かされて、楽しい予感がしていた。後日、出版を控えて再度来店した彼は自殺率の現状を話し始め、WHOの統計で世界第2位だと発表されている日本はたぶんウソの報告をしていて、ロシアを抜いて1位であろう。これだけの裕福な国の人々が何故追いつめられて行くのだろう、その点メキシコは所得も低く、アメリカからは差別とひどい待遇を受けながら、最下位の率である。日々の食事では無いのかと仮説を立て、調べる中でナス科のトマトや唐辛子、インゲン豆の成分に気持ちを高揚させつ要素があるらしいと確信したと。話し終えた彼が手にしていた発売間近の本には、44歳、薄毛、とてつもなく冴えない男(料理人)が人類を救う旅に出るストーリーがメキシコを舞台に展開していた。出版後、大反響を呼んだこの本による講演会やTV出演の度に、彼はラ・カシータの料理を常に側に置き、真摯な態度で講釈をしてくれた。

ラ・カシータ、少女コミックに登場!
「食」に興味を持ち、それが自身の中心核となり始めたのはいったいいつの頃からだろうか?幼い頃は家の周りに食材が溢れていた。夏時分、近くの畑には胡瓜、トマト、茄子等がたわわに実り、勝手気ままにもぎっては口にしていた記憶がある。道端にはとうもろこしや砂糖きび、庭には無花果や枇杷が生り、そんな景色を眺めているのが好きだった。駄菓子屋に行っても一番心を惹かれたのは、黄な粉をまぶした、手作りの型で抜いたゼラチン菓子だった。5〜6才の頃の思い出である。誰しもがそうであるとは限らないが、料理人や評論家にならなくても、「食」への興味を生涯持ち続ける方々が大勢おられるのが、調理の表現者となった自分の励みと考えてきた。美食へのこだわりを自分の仕事の風景として捉えている典型的な例は文筆家の作品に顕著に見られる。池波正太郎氏や壇一雄氏の作品は、一皿、一皿の実態だけでなく、香りや美味しさが如実に文面から伝わってくる。メキシコ料理もいつの日か、こんな風に書いて貰えないかなあと、遥かな夢を持ち続けていた。意外に早くその成就はやって来た。それは旧山手通りにオープンして4年も過ぎた頃だった。椎名誠氏のエッセイの中にラ・カシータが発信する料理の味わいと感動、新たな発見が文章に表現されたのである。追いかけるように女流小説家、中島梓女史の作品のワンシーン、代官山ラ・カシータでの食事の光景が料理と共に登場するのである。感無量だった。
それから時は過ぎて、2002年の暑い夏の頃だった。竹之内淳子と名乗る漫画家の先生が訪ねて来た。依頼は、次回の物語はメキシコが舞台だが、街の風景が想像出来ないので写真を見せて頂きたいとのお話だった。後日、訪墨した時のものや資料本等を参考に現地の地域性や国民性をレクチャーし終え、折角だから食事をしていきますと何品か召し上がっている時の事だった。「こんなにメキシコ料理って美味しいんですか!」驚嘆されるので、食文化の話に移行し、チャンスとばかり今度の作品に料理の登場は無理ですか?と強引ながらお願いをしてみた。翻訳本なのでストーリーを変える訳にはいかないとシナリオ構成の担当者は困っていたが、先生は余りにも気に入ったのか心が揺らいでいた。一週間後、再び来店した彼女達の返答に、思わず「やったあ!」と達成感の気持ちがあふれ出た。何と筋書きを変更して、ヒロインの船上での食事シーンや訪問した家庭での場面にワカモーレやエンチラーダス、タンピコ風ステーキ等が登場するのである。そして、ラスト・・・二人の心を結びつけるキーワードは、料理名の「ワカモーレ」で、ハッピーエンドを迎える結末に見事に修正されていた。感謝感激の出来事は編集長の計らいで3ページ増えて、少女漫画に描かれた私自身が語る番外のメキシコ料理講座まで構成された事である。


奇跡のチーズ発見秘話
案外、知られていないが、メキシコは、中南米切ってのチーズ大国である。ヨーロッパから受け継いだ技法は、およそ400年の期間にこの国の土壌、風土に育まれ、根付いた個々の種類は、他の国に例を見ない独特の風味、成り立ちを醸し出す特有の製品として各地域に存在している。短期熟成のリコッタチーズのようなケソ・アニェッホ(Queso A?ejo)は手で触れるとボロボロになるくらいのフレッシュなもので、最も一般的にフリホーレスやエンチラーダスのトッピングに使われる。モッツァレラのような味わいを感じさせる、ケシージョ(Quesillo)と呼ばれるオアハカのチーズは強い弾力があり、火を通した鶏肉を裂くように手で裂くことが出来る。そのまま耐熱皿に溶かし、トルティージャに巻いて食す、ケソ・フンディードが有名である。濃厚な旨味をもつケソ・マンチェゴ(Queso Manchego)は味が滑らかで、口当たりは、我国のメルティングチーズにおおよそ近い。柔らかくて淡白な味わいのケソ・パネラ(Queso panera)はワカモーレと共に前菜に、北海道十勝を思い起こさせる持ち味のケソ・チワワ(Queso chihuahua)、煮込み料理などに使用される塩味の強いケソ・フレスコ(Queso fresco)等、メキシコらしさを滲ませた風合いのものがどこの市場にも溢れている。
公園通りに店を構える準備に奔走していた時期、唐辛子と共にチーズも最大の課題であった。1970年代の時代背景は現在のように手軽に入手出来るイタリア食材も皆無で、チーズといえば、石鹸のような日本製が主であった。唯一、アメリカKRAFT社のチェアーチーズが輸入食材品店で売られていたが、米国民好みの癖のある味が強すぎて使う気にならなかった。手段は食材輸入の会社に頼るしかないと、電話帳に掲載されているそれぞれに片っ端から尋ねる一歩から始まった。約100社程あった相手先の殆んどが、予想通り米国中心の営業活動だったが、一割ほどヨーロッパのものを扱っている社がみつかった。メキシコ産は不可能にしても、それらの試食を試みようと、連絡を取り、各営業マンの方々にご足労いただいた。奇跡が起きたのである。何とたった1社が取り扱っていたゴーダチーズが旨味も香りも充分に満足のゆくものだった。それはオランダFRICO社が製造している15kgの途轍もない大きさの製品で、果たして賄いきれるかどうか不安はあったが、即、決断を下し、契約を結んだ。ラ・カシータのチーズ献立の基盤が確立し、誇りと自信を胸に提供出来たスタートから早いもので36年、恵まれたことに相手も企業継続を重ね、現在も取引が続いている。余談ながら当時の担当だった外回りの彼は、今、常務取締役として社の重鎮となっている。

未来に希望の灯火の花が咲いた瞬間