1976年、夏、食材(唐辛子やチーズ等)の調達も解決し、何とか開業に漕ぎ着けた公園通りの店だったが、最大の問題が勃発していた。手配していたMASA(とうもろこし粉)が船便の遅れで2カ月先まで届かないとの事。由々しき事態である。和食屋に米が無いのと同じ状況に途方に暮れてしまった。しかし、開店を遅らせる訳にはいかない。悩んだ末の結論は、メキシカンライスと一品料理で乗り切ろうとスタッフを鼓舞しながら、何とかなると思い込んでいた。だが、現実はそんなに甘いものでは無かった。客が来ないのである。タコスも無いメキシコ料理屋、況してや味の想像もつかないアラカルトの表示には誰も振り向いてはくれなかった。真向かいに「Charley’s House」と云う名の香港ラーメンの名店があった。10人も入れば満席になるカウンターだけの店だったが、昼時も夕暮れ時も行列が絶えない大繁盛店である。骨付きの鶏肉を使った澄んだ上湯スープに細麺、トッピングはせず、豚肉にカレー風味を付けて揚げたものや蒸し鶏、香味ネギ等の具材はそれぞれ小皿盛りで盆に乗り、アクセントに豆腐を塩漬けにして醗酵させた醤豆腐が必ず付いてくる。正に寸分の隙も無い、この店ならではの上品で完璧な仕立てだった。ある日のこと、オーナー婦人と厨房の職人が来店してくれた。
向かいだから気になったのか、挨拶もそこそこに、お薦めのメニューを調理し、食文化の解説も交えながら話をしている時だった。「渡辺さん、海老も鶏も肉も全て美味しいわ、この味をベースに賄える食材でランチをやってみたら?大丈夫よ、頑張りなさい!」と、突然、提案してくれたのである。頑なに本国に忠実な表現だけと突っ張っていた思いが氷解し、実現に向けて構想がスタートした。当時の昼はハンバーグや豚肉のしょうが焼き定食、ナポリタンやミートソースのスパゲッティが定番、まだ、パスタと云う単語も無い時代であった。他に無い独自の物をと考えたのは、豚肉の一枚肉に粉をはたいて焼き色を付けた後、白ワインでフランベし、青唐辛子風味のトマトソースをあしらったものや、若鶏のもも肉にカレー風味のベシャメルを絡めた一品等をミニサラダ、コーヒー付きで提供してみた。見本の皿を入り口に展示したところ、行列の人々が目に留めてくれるようになり、ポツリポツリと浸透していった。未体験の味に感動してくれた彼らが、やがて夜の来訪にも繋がり、本来のメキシコ料理に興味を抱く顧客達として定着して行く事となった。「Charley’s House」、現在は閉店して存在しないが、あの時のひと言は心に滲みて、今も残っている。
メキシコに侵攻したスペイン人のエルナン・コルテス一行が異邦人として初めて、アステカ王国の都、テノチティトランに入城した1519年11月8日、湖上に聳えるすべて石造りの巨大な楼閣、神殿、建造物を目の当たりにして驚嘆したと伝えられている。同行した年代記作者ベルナル・ディアスの記述によると、中心地、トラテロルコの市場には、金、銀、銅、錫、真鍮等と、さまざまな、石、骨、亀甲、貝、羽毛で作った装飾品が売られており、食料としては、鶏、ウズラ、野鴨、キジ、鳩、オウム、鷲等の鳥類、肉類は、野兎、鹿、食用に去勢して飼育された小型犬、野菜類も豊富で、トマト、玉ねぎ、ニンニク、多種の唐辛子類、ねぎの一種リーキ、あざみ、かぼちゃの類、名称も解らない数種の植物などが見られたという。感嘆したのは、新鮮な魚や塩漬けのもの、調理された海の幸、それらと共にとうもろこしの粒やトルティージャ、鶏や鷲の玉子が多量に、しかも、良質の状態で売買されていることであると、本国スペインに報告した記録が残っている。数千年の時を経て培われた狩猟と農耕村落の歴史、民衆の生活体系を基に築かれた王国の絶大な支配力は、その2年後、消滅してしまう。しかし、征服された新大陸からヨーロッパに伝来された食材達は各地で逞しく生き延び、全世界にその名を知らしめて行くのである。
旧山手通りに店を構えた年(1978)の夏の頃、真面目そうな一人の男が来訪した。「あなたが庸生さんですか!」と、いきなり名指しして握手を求められた。聞けば、自分がメキシコに滞在していた時期に住んでいた部屋に偶然、前後して入居したら、家主から毎日のように私の話をさんざん聞かされた由、日本に帰国したら一度お会いしたかったとABRAZO(ハグ)の連続である。手渡された名刺の肩書には上智大学国際学部、メキシコ人類学教授、高山智博とある。日本有数のアステカ文明研究者であった。本国のイベロアメリカ大学で教鞭をとるメキシコ人類学の長老、ウィグベルト・ヒメネス・モレノ教授の元で1960年から学んでいて、訪墨の目的はアステカに関する史料を読破するためで、1年間過ごしていたとの事。この巡り会いには驚いたが、それから高山教授は何度も奥様と店を訪れるようになり、その度にメキシコ食文化の知識を披露したい私の翻訳に付き合ってくださった。数年経ったある日の事、「うちの大学で授業してみますか?」と持ち掛けられた。思い返せば、その頃は現在の知識ほどには追い付いていなかったが、若気の至りか、逸る気持ちを抑えることはできなかった。そして、当日、四ツ谷の本館の一室、86人の聴講生を前に2時間の{メキシコ文化論}を敢行した。夢中で講義し、気が付けば全員の大拍手で我に返った状況だった。後で録音を聞くと、黒板をチョークでカンカン叩く音ばかりが耳触りに鳴り響いていた。世間知らずの私が救われたのは高山教授からの「よく勉強してますね〜」の一言だった。

開業当時(1976年)の飲食業界に於ける背景を振り返ると、その頃、調理スタッフとしてメキシコ料理に興味を示してくれた教え子達に今更ながらに感謝の念を覚える。現代のように各国料理(イタリア、タイ、韓国等)の専門シェフがその持てる力を誇示できる現状には程遠く、当時、渋谷の一郭では創作茹でたてスパゲッティの店が脚光を浴びていた。乾麺を茹でてから再加熱するのが通例の調理法に対して、斬新な手法は忽ち評判を呼び、毎日行列ができるほどの人気店だった。その店の前を通りながら、いつの日かメキシコ料理もこんな風に注目されたらと遠い未来に希望を託している自分がいた。そんな時代に私の所へ弟子入りしてくる彼らは、余程の変わり者か捻くれ者に違いなかった。唯、未知の領域に持った関心は留まる所を知らず、大いなる向学心に繋がってゆくものである。教え甲斐があると言うよりも、思い起こせば、まだ今ほどの知識、認識で無かった私に、彼らの質問は自分自身への限りない探究心を呼び起こしてくれたのである。仕事の合間を縫ってスペイン語を教えたり、レシピ、食材、料理名等の解釈を検討したり、一緒に取り組む時間が増えて行った。それまでそうだと受けとめていた事実を改めて再検討してゆける状況は恵まれた出逢いでもあった。
旧山手通りに移って2年も過ぎた頃には調理場は6名に増員できるくらいに店は回り始めていた。頭数が増える中でもその風潮は変わらず、更に食に関する議題で厨房は常に賑わっていた。メキシコだけに捕らわれずビールやワインの製造法、歴史、材料、品種等を探究する様子は逞しく、我が身にも頼もしい意義を感じていた。心意気はエスカレートして、とうとう、工場見学の要望に行き着いてゆく。インターネットで検索できるような時代では無い頃、現地へ赴くしか手段は取れず、定休日を活用して日帰りで実行することとなった。キリンビールやサントリーのワイン製造工場、勝沼のワイン醸造所等、出掛ける度に親睦も兼ねてスタッフ達の仲の良さは家族のように親密になっていった。ある日、サントリーのウィスキー工場に出向いた折、ガイド嬢の解説でモルトとグレーンウィスキーの違いの説明を聞いている時だった。大麦だけを使用する前者に対して後者は他にライ麦、オーツ麦、とうもろこしを併用する話に反応してしまった。思わず彼女に縋っていた。資料室にとうもろこしの文献があれば見せて貰えないかと。快く案内された部屋でページを開いた瞬間、身震いする程の感動が全身を駆け巡っていた。メキシコ、TEHUAKANで発見された7000年前の野生のとうもろこしの復元図や期限、種類、栄養価に至るまで網羅された内容は圧巻だった。コピーも儘ならない時代である。書きうつす量も半端では無い。ざっと目を通して心残りのまま、できればとコピーをお願いして帰路についた。一年後、忘れた頃に届いた大封筒の中にはコピーどころか移しが製本されて、「遅くなりました」と一行の手紙が添えられていた。完璧に仕上げられた一冊の資料は今も大事に手元に置かれている。

還暦を超えて半ばを迎えようとするこの頃、一年の歳月が余りにも敏速に過ぎ去る状況に戸惑いを覚える瞬間が増えて来た。誰しもが経験する事ではあろうが、逆に若い頃の濃密な時間の流れに不思議な運命を感じてしまう。それは、活気溢れる日々の行動が結果をもたらせたものかどうかは、今も判らない。だだ、少なくとも、凝縮された時間の中で、あの頃の物知り顔をした熱意(生意気さ?)が人々の関心を高め、様々な出逢いを呼び込んだ出来事の積み重ねが現在の私を育成してくれたのではないかと、最近この原稿の連載を書くようになって、改めてその恵まれた事実に驚いている。思い返せば、1976年当時の公園通りはPARCO(1)ができたばかりで、渋谷駅からその交差点までは賑わってはいたが、坂上の渋谷公会堂辺りはそんなに人は多くなかった。表通りではなく、それも路地を入った少し奥まった場所に開設された怪しげな、たった7坪の小さな店が繁盛店になるなど、誰も期待してはいなかった。連載の最初の頃、その事情に触れたが、駅前にビルが完成するまでの一年半の期間だけ使用を許された代替地だった。持ち主の行為でメキシコ料理が面白いと目を付けて貰えたが、明治生まれの彼女にとっては、多分、遊ばせているよりはましと考えていたに違いない。
それでも与えられた好機に報いるべく全身全霊を込めて、店に一歩足を踏み入れた客達の一人一人に、くどいばかりの料理解説を交えながら接する毎日が過ぎて行った。よく覚えていないが、相手の年齢も立場も我関せずとメキシコ料理の解釈を語るその態度は、時には鬼気迫るものがあったよと当時の顧客達から何度も聞かされる。功を奏したのは、世の中の風潮が音楽やファッション、飲食に関して、「これからは自分達が見つけたもの、その場所」と変化が起こり始めた時期に遭遇したことである。流行りものを追いかける原宿を意識した若い世代の対抗心が公園通りに求めたものは、正にそれだった。マスコミに対してミニコミと称された小冊子の取材が段々と増えて行った。おかげで店の情報が一般の目に留まるようになり、帰国子女や中南米に携わる多くの方々の来店を得ることができた。夜毎、彼らと料理談義が何時間も盛り上がる様は、レストランと言うよりも、ある種サロンと化していた。まだ、開店して4ヶ月くらいの頃の状況である。ある日のこと、そのメンバーの中の小新聞を発行している方から毎月のコラムでメキシコ料理事情を執筆していただきたいと依頼された。原稿用紙1枚分の小さな枠だったが、知って欲しい事柄が山ほどあった頃、作文など苦手で困惑したが、勢いで承諾し、何回か連載を続けた。今、読み返すと稚拙な文章だが、この経験が後日思いもよらない事態へ繋がって行く。

渋谷公園通りの店は、場所柄、NHKに近かったせいか局員の方々がよく来店してくれていた。中でも美術班のカップル二人(後に結婚)は週に2〜3度はランチを食べに来た上、夜も友人達を引き連れて来るくらい、ラ・カシータの味に填っていた。食文化の伝達で大事な事は、講釈も必要だが、未知の味覚に遭遇した瞬間に、理屈は抜きでその味の魅力に陶酔して頂く事。それが、伝承者の役目と心得ている。様々な経営戦略があるが、不正解がないくらい、どれを選んでも全てが正解に思える。仮に公園通りの店が長期間使用可能で、経営責任者としてのノルマが課せられていたとしたら、又、違った結果になっていただろう。幸いにも持ち主の思惑と当時の自分の境遇が寄り添い、あの場所で実践できた経験は、恵まれた事実以上に、今、必然性を感じてしまう。当然、料理人として美味しい皿を提供したい気持ちは根底にあるが、世の中、そうそう思い通りに事が運ぶものでもない。本国の基盤を崩さずに偽り無く伝えて行くには、技術や知識、そして、センスも必要だが、現地での気候条件や食材の成り立ちも違えば、地域の好みも変わるので、現地以上の柔軟な感性が必要とされる。食に精通した日本人の舌を唸らせるには、基本のレシピだけでは追いつかない。美味しさに気付く入り口に導く究極の手段は、判りやすく、シンプルに、そして、時には大胆に表現しなければと常々考えている。
1977年の年も明けた、ある寒い日の午後だった。大柄な男ともう一人、細身の二人が来店した。横柄な態度で腰を下ろした、がたいの良い男性は先生と呼ばれていた。ワカモーレと牛タコス、鶏料理を注文して食事が進む中、いきなり、「料理を作ったのは君か?」と問いかけてきた。何か、問題が?と緊張しながら側に寄ると、「メキシコに居たのかね?」と又、聞いてきた。経歴を話しながら、味が気に入りませんか?と尋ねてみた。「旨い、抜群に旨い!」と絶賛である。後に知ることになるが、男は、並河萬里、世界の文化財を撮影してきた日本を代表する写真家であった。NHKのディレクター(細身の男)が小新聞に連載した原稿を読んでいて店の存在を知り、訪ねてくれた由。追加の料理を注文され、今度は「君、僕の本に原稿を書いてくれないか」と唐突に言い放ってきた。この春に出版する写真本{並河萬里、遺跡をゆく2、マヤ、アステカの旅}に1ページで良いからと、ご本人の性格か、もう結論付けて一旦帰られた。3日後、身内と来られた萬里先生は「大したもんだ、全部旨い!」と終始ご満悦で、ご機嫌だった。依頼された原稿用紙5枚分の枠には、精魂込めて集中した内容を織り込み、お誉めの言葉も戴けた。この本には大学名誉教授や映画監督の羽生進氏、イラストレーターの長尾みのる氏など一流の方々が執筆されている。写真の大家でありながら、一瞬の出逢いで、見ず知らずの若者に何かを感じて頂けたこの出来事が、その後の自信に繋がって行くことになった。2005年に亡くなられたが、今更ながらに感謝の念に絶えない。
旧山手通りにOPENして3年も経った頃には有り難いことに、年間40〜50件にも及ぶ週刊誌、ガイドブック、TVなどメディア取材が殺到したおかげで、店は連日盛況の日々を達成していた。その影響か、調理志願者は引きも切らず、興味を持って入店した彼らに指導している自分が使命感を覚えているのに気付き始めていた。時代の壁を一つ取り払って、少し前へ進める確信が芽生えた瞬間だった。茅ヶ崎の文化カルチャーから講師依頼の電話が鳴ったのは、その時期だった。担当者達が下見の食事の際、その美味しさに大感激しましたとの思いが依頼の理由と聞かされ、感無量だった。ようやく自分が求めていた導きが現実になった知らせは、身体が身震いするほどの喜びだったのが記憶に新しい。当日、勇んだ気持ちを胸に抱えて茅ヶ崎に出向いた私を、拍手と歓声を上げて迎えてくれた係の女子達に案内され、駅から数分の会場に到着した。調理設備の整った立派な部屋だった。女子ばかりの総勢20名の生徒を前にして、気持ちが高ぶったのか、メキシコ食文化の解説を話し始めて、気が付けば1時間が経過しており、係から「先生、そろそろ調理に?・・・」と促されてしまった。残り1時間、猛スピードで授業を進行し、何とか無事に終了した。質疑応答の際、質問は?と問い掛けると、一番にハイッと大きな声で手を挙げた一人が「先生、血液型は?」の言葉を印象深く思い出す。
それから東京ガスや民間の教室を幾つか経験し、授業の進め方も慣れてきた頃だった。大手の朝日カルチャーから依頼が舞い込んだ。新宿住友ビルの3階全フロアーに構える名門校である。老舗や有名料理店のシェフ達が名を連ねる文化施設に仲間入りできた事実は、大いなる自信に繋がった。数回、不定期に招かれる状況の折、30名弱の生徒の中に近郊のメキシコ料理店の経営者が混じっていた。数店取り上げられる雑誌の取材の度に、他の店を見比べ、何故、サルサやトルティージャを手作りで提供できないんだろう?と、日頃から口にしていたが、決意して参加してくれた勇気に感謝の気持ちだった。デモンストレーションの後、贔屓目ではなかったが、気になり懇切丁寧に教えていた。現在はその店は存在しないが、この頃は何回も通われ、真剣に取り組んでいる姿があった。一般の生徒が会得するのも必要な事だが、いつの日か、プロを養成するだけでなく、プロが気付いて学んでくれる未来を想像していた。ある日の事、帰り支度を控室でしていた時、「先生、生徒さんがお話ししたいと・・・」と、スタッフに声をかけられた。料理の質問かと思いきや、何と就職志願だった。彼曰く、自分は今、建設関係の会社に勤めていますが、ラ・カシータにお伺いして、頂いた卵料理に感動しました。今日、この場所で更なる思いが強まり、是非、雇ってくださいと。即答はできなかったが、従業員達と相談の上、受け入れる決定をした。数年、店で修業をした後、彼はずっと料理の道を歩んでいる。

若かりし頃の非礼、今は感謝の思い
1976年夏、渋谷公園通りに構えることのできたラ・カシータは、古い木造2階建ての1階の片隅、端っこの狭い割り当てだったが、中央の大きな窓は、隣の小さな公園に面しており、そこから見える景色は開放的で絶好の環境に恵まれていた。入り口の傾斜部分には、払い下げの枕木を積み上げた階段を設置し、横には1坪ほどのOpen Airテラスを造ってみた。資金に余裕がなかった当時、テラスの床面もイス、テーブル、看板も全て家屋を解体した古材を使用した。店の軒先に並ぶLa.Casitaの文字は近所のステーキ店が廃棄した木製の下皿に彫り付け、赤色を塗ったものだった。洗練された上品さでは無かったが、塵類を再利用した手造り感に共鳴したのか、アングラ劇団や物創りに携わる来店客が増えていった。後に渋谷区役所の廃棄物担当者から表彰ものですよと褒められることとなる。順調に顧客は付いていったが、大幅な利益にはなかなか繋がらなかった。開店前、「黒字が出なければ、自分の給料は結構です。」と大見得を切った手前、何とか収支はとんとんに維持していたものの、持ち主にとっては少し歯がゆい思いがあったのかもしれない。荒井(持ち主)さんが思い切った手に出たのは1年ほど経った頃だった。「渡辺さんとの約束は朝から夜10時までだから、後は好きに使うわね。」
突然の宣告に意味が解らなかった。話を聞くと、渋谷駅前で営業していた焼鳥屋の従業員2人に朝まで店を任せると。近年なら常套手段だが、この時代には斬新な発想だった。だが、あくまでもオーナーの意思、逆らうことはできない。「解りました。」と云うほかなかった。こうして夜11時からラ・カシータの看板を外した所に「夜来」の字が記された大きな提灯が下がり、居酒屋が運営される運びとなった。流石に焼鳥は提供できないが、モツ煮や和え物、板わさ等、事前に家で準備をしたものを保存容器に詰め、手間をかけずに賄える献立構成には感心した覚えがある。ただ困ったことは、来店したお客様が「あれっ?肉ジャガはないの?」のような戸惑う場面が多発し、説明しても相手も半信半疑、なかなか理解してもらえなかった。時代が早すぎた感はあったが、今思えば、それだけ夜中も集客できていたと考えられる。ある日のこと、出勤したら、前日に仕込んだサルサ・メイヒカーナが半分減っていた。閉店後、訳を聞くと「あれ、厚揚げを焼いたのにかけたらすごく美味しくて、お客も大喜びだったよ。」と平然と説明された。腹が立った。その頃の私は伝統メキシコ料理一筋のカチカチ。高齢者の大先輩だったが、許せない感情が身体を駆け巡り、料理を侮辱された思いで相手に怒りをぶつけていた。若干29歳、若かりし頃の出来事である。この経験が現在に繋がるとは思いもよらなかったが、時が流れ、サルサの活用を推奨している私にとって、必然の結果をもたらせた先輩に大感謝の思いである。

宇津井健さん、ご冥福をお祈りします
2014年3月14日、午後6時5分、宇津井健さんが逝ってしまった。35年の長きに渡り、ラ・カシータをこよなく贔屓にして頂いた顧客のお一人である
この1年、ご自身の肺の調子が思わしくないのは人伝に耳にしていたが、復帰に向けて治療に専念されており、また、元気なお姿にお会いできると信じていた。唯々、残念な気持ちでいっぱいである。旧山手通りの店の頃は、亡くなられた奥様とまだ小さかったご子息といつもご一緒で食事を楽しんでおられた。最近は事務所の方々や番組スタッフを連れて来られる機会が多く、その都度、お気に入りのファヒータの食べ方を指導しながら過ごされていた。この料理は、若鶏もも肉の細切りと玉ねぎやピーマン等の香味野菜、チレ・ハラペーニョを炒め合わせたものと煮豆ペーストをラードで二度炒めしたフリホーレス・レフリートス、アボカド・ディップのワカモーレが一皿に集まっている伝統的な家庭料理である。焼きたてのトルティージャと共に食すのだが、タコスのイメージが根強い日本ではどうしても具材を巻きたがる。若い頃の乗馬留学の折、メキシコの牧場でホームステイされた宇津井さんは、主食と副食の食事マナーを現地のお母さんから教えられ感心したとよく話されていた。私達が食事の際、いきなりご飯に惣菜を載せないのと同じ道理である。お行儀良くこうしてと左手にトルティージャを持つ姿が目に焼き付いている。
思い出は尽きないが、印象深く蘇るのは、店が不況の折、気にかけていただき、紹介されたフジTV、TOKIOの「メントレG」と先日亡くなられた山本文朗さんのトーク番組の収録の事。カメラ位置や照明の準備が進む中、背筋をピンと伸ばして立ったまま、一切、イスには座らない。収録中は兎も角、スタッフが働いているのに座っては失礼だよと訳を聞かされた。また、お台場の局の本番も終わり、同行したメンバーと帰り支度をしていた際、突然現れ、「大将、今日はわざわざ来て貰って有り難う!」と手を差し伸べて個々に握手をして頂いた。各著名な方々と撮影現場は経験しているが、そこまで気を遣われるのは宇津井さん唯一人である。心残りがひとつある。SMAPの「スマスマ」から、「ご本人がメキシコ料理を希望なさっている、来て貰えますか?」と知らせがあったが、生憎、他の教室と日が重なっていて、行けなかったことである。後日、「いやー、渡辺さんに来て貰ったら、もっと美味しかったのにねー。」と残念そうに笑みを浮かべておられた。小淵沢の牧場近くの別荘にも「今度、遊びに来て、料理作ってよ。」と電話番号を手渡されてもいた。日本を代表する名優の方に、こんな推測は恐れ多いが、その日の演技のベストライブを追及する宇津井さんの心情が、私の一途な生き方に共感されたとしたら、こんな光栄なことは無い。「よっ、大将!今日も美味しかったよ!」の声をもう一度聞きたい。心からご冥福をお祈りいたします。

今だから語れる秘話・・・
1976年の開業以来、それぞれのお客様の胸に根深く刻み込まれたラ・カシータのイメージには、やはり、旧山手通りの存在感が大半を占めているのではないだろうか。常連の顧客達だけでなく、30数年ぶりに来店される方々がこぞって口にされるのは、「あの店は良かった。」の言葉である。初めて出逢ったタコスやサルサの美味しさに感動した事も話題になるが、何と云っても「テラスが素晴らしかった。」とべた褒めの嵐である。飲食の商売にとっては致命的な人通りの少なさも幸いして、ゆったりと刻が流れる代官山の一角に出現した一軒家風のレストラン、その前に10坪程の庭。思い返しても出来過ぎのロケーションだが、これには今だから語れる秘話がある。以前の事務所の駐車場が勿体無くて、古い赤煉瓦を敷き詰め、砂を入れた窪地を造り、テキーラの原料である竜舌蘭を植え、看板を設置した壁際の下部には多種の観葉植物を植えてみた。そして、手造りの木製テーブルやイスには、明色系のペンキを塗り、如何にもメキシコを感じさせるガーデンハウスが出来上ったのだが、難問が待ち構えていた。保健所に営業許可の申請に伺った折、図面を見た係官から指摘を受けた。衛生上、戸外での飲食提供は許されておらず、却下されてしまった。メキシコは勿論、諸外国では普通の事だが、この時代の日本では規制が厳しい状況だったのである。さあ困った。考慮の結果、ある手段に出る。
元々、駐車場だったのだから、図面を書き換えて、改めて車用として申請を行ない、実地検分の当日、すべてのテーブル、イスを裏の小路に運び、隠したのである。係官は何の疑問も持たず、シンクの数と手洗い設置の確認だけ取り、無事に営業許可証が発行された。今更ながらに当時の係官に陳謝である。店は暫くして繁盛することとなり、連日予約満席、週末には行列ができる日々が続くのだが、テラスの人気は鰻登りで空席待ちの予約が入る程だった。まだ、携帯電話もない頃、並ぶか、近くの店で時間を潰し、空いたころを見計らって来店する状況の中、幾つかの現象が生まれていた。現在では考えられないエピソードだが、小路を挟んだすぐ横のガソリンスタンドで洗車が始まると、食事中のテーブルに水しぶきが飛んでくるのである。洗車が終わるまで皿を持ってそこを離れ、立ったまま召し上がっていた。究極は雨が降ってきた時、店内が満席の折だった。「マスター、傘貸して!」とお願いされ、そのお客様は黙々と食事を続けられた。有り難いことに全て屋外の出来事として、許して頂けた。時代に助けられたのかどうかは今も解らないが、ラ・カシータを愛おしむ顧客達の寛容さに改めて大感謝を申し上げたい。時は流れ、規制も緩和され、テラスがある店も増えたが、貴重な体験として、あの頃を語る人々が後を絶たない。

メキシコ料理もユネスコ世界無形文化遺産に登録されている!
私が調理を志した1970年代、日本はフレンチが主流だったが、1990年あたりあら少しずつイタリアンの店が増え、西洋料理界も様相が変わってきた。正確な数は覚えていないが、現在(2015年)イタリア料理の調理人はおそらく10万人を超えているだろう。これだけの表現者が食文化を目の当りに見せつければ、認識は浸透し、パスタやピッツァの生地は市販品の乾麺や冷凍物ではなく、自ら練るのが常識となった。残念ながら、トルティージャに関しては、まだ、その意識に届いてはいない。メキシコ料理店の件数は年々増えてはいるが、しっかり焼いている現場は指折り数えるほどである。全国で400軒に満たない現状を察すると、イタリアンに追い付くには、この先50年から100年の歳月を要するはず。そしていつの日か、TEX-MEXではなく、本国の独創性に気付くだろうと奮闘してきた。2010年の初頭の頃である。吉報が世界に発信された。ユネスコ世界無形文化遺産にメキシコ料理がフランス料理と共に登録されたのである。飲食に携わる人々にとってビッグニュースになるはずだったが、この国のメディアは当初、NHKをはじめ各局もフレンチしか盛り上げなかった。大いに憤りを覚えたが、マスメディアとはそんなものかと呆れていた。それから1年余りが過ぎた頃、メキシコ大使館商務部から「ワークショップセミナーを計画しています、是非、お会いしたい。」と連絡が来た。
後日、来訪した2名の参事官は登録を機に、「メキシコ伝統料理の基本」を講習していただきたいと熱い口調で依頼してきた。場所は汐留にある東京ガス業務用厨房ショールーム。日本屈指の調理場である。断る理由は無かった。公募の結果、定員30名は即、埋まったが、熱望される方々がいて、結局40名に増えた。心待ちにした当日、朝7時、迎えの車に食材、用具を積み込んで出発。調理補助のシェフ数名と挨拶を交わし、受講者の名簿をチェックした時だった。驚いた。一流ホテルのシェフ達、料理教室の経営者、某ファミリーレストランの統括料理長と料理長、企業の食品開発部や商品企画部、そして、近郊の各同業者の幹部達等、一般人は数えるほどだった。これだけプロが揃う現場は初体験だったが、持てる力を存分に発揮できればと奮起して、とうもろこしの歴史や唐辛子の個性、サルサの定義や先住民の食文化など3時間の講義と実習をやり終えた時、全員から盛大の拍手が沸き起こった。質疑応答も関心度の高い質問ばかりで、充足感溢れるひと時を楽しませてもらった。補助のシェフ達からも「こんな楽しい教室は初めてです!」と握手を求められていた。僅かでも未来へ繋がる役割を果たせたのかなと感じた1日だった。数週間後、聴講したホテルの統括料理長が部下を連れて来店、今後、うちのダイニングでもメキシカンを検討したいと興味津々の様子で、それぞれの料理を吟味されていた。
豊洲文化センターでの調理なしの講義で・・・
この数十年の間、料理講習を幾度もやらせていただいたが、どの会場に向かう時も楽しみで仕方がなかった。メキシコ本国が培った食の魅力を如何に理解してもらえるか、身を持って体現できるチャンスにいつもワクワクしていた。それぞれの食材と絡み合う独創性溢れるサルサやチレの類の美味しさは、その時々の生徒達に感動を与え、彼らの探求心を呼び起こす。我が人生の立場において、表現者冥利に尽きる思いでいっぱいである。とはいえ、この程度の知識や技量で極めたつもりは全く無く、与えられた命の時間の中で、数千年の食文化をどこまで追求できるのか興味津々の日々が続いている。自身の知識欲も大事だが、店のスタッフや生徒達の質問に気付かされる事が多々ある。まだまだ、知らない事例の絶大さは、一人で担えるものではなく、日本に数多くの調理人が増え続けることが重要である。だが、有り難いことに先駆者としての位置づけが頼りにされるのか、最近はニュースや番組制作の現場からの質問や事業検証の電話が頻繁にかかってくる。時代がメキシコ料理関連の報道に関心を持たれてきた証かもしれない。私が認識していることだけでも役に立つならと、必要とされれば話したい使命感は常にあった。
豊洲文化センターから「メキシコを楽しむアラカルト」の講義依頼を受けたのは、2010年の秋だった。著述家、大学や大学院の教授達が何人も揃う講師の中に加えていただいたのを光栄に思い、快諾した。調理なしの講義は意外だったが、望むところであった。自分のテーマは、「メキシコ料理の奥深さ、〜5000年の食文化に迫る〜」。他の講座内容は、遺跡や古代史、フリーダ・カーロとディエゴ・リベラを中心とした壁画と自画像、伝統音楽と舞踏、文学の考察等、学問カルチャーらしい題目が羅列していた。11月からの3か月間、隔週でそれぞれの講師がシリーズを受け持ち、年明けの1月14日が私の出番だった。教室に入った瞬間、聴講生達が違和感を持っているのを肌が感じていた。どうして料理人が?と訝しむ様子が窺がえたのである。自己紹介を終えた後、講義がスタートした。トマト、唐辛子、とうもろこし等のメキシコの食材が、16世紀以降、世界に寄与した歴史から先住民の個性豊かな食生活、調理法が醸し出す味の素晴らしさなど、話し始めて30分ほどで彼らに興味が沸いてきたのが伝わってきた。授業構想は現場の生徒を見てからと思っていたので、残り1時間、鍋やフライパンは無いが、本国に根ざしている野菜や肉類、魚介類の献立の美味しさを感じさせる授業を進めた。時間がきて、質疑応答に移行した時、最前列の高齢者と思われる男性が一番に手を挙げた。講義の質問が来るかと期待したら「先生のお店はどこにありますか?」だった。後日、その時の受講生たちのほとんどが来店され、店の味に舌鼓を打ち、満足げに帰られた。
いつか憧れのムッシュ村上のように・・・
メキシコの西部、ミチョアカン州にあるパツクアロ。標高2175mの高地には幾つかの湖が点在する。ミチョアカンとはナワトル語で「魚を持つ人の土地」。観光地として人気があり、名物料理はやはり鱒や鯉、小魚等の淡水魚を調理したものが代表とされる。スペイン人の侵略の折、エルナン・コルテスの先住民に対する強制労働や奴隷化にもめげず、現在も頑なに部族の伝統を守り続けているプレペチャ族のリポート番組がBSで放映されたことがあった。村の実態は、週に一度、教会前の広場に立つ市で産物や食材を物々交換し、石のかまどで食生活を営み、近隣家族と仲よく暮している内容だった。ふと、思い出す情景がある。私が幼い頃の昭和20年代後半、我が家も同様だった。まだ暗い早朝、祖母は土間に下り、釜に米を研ぎ、かまどに薪をくべるのが一日の始まりだった。七輪の練炭の火を起こすのが自分の役目。辛い気持ちは全く無く、むしろ楽しかった覚えがある。徳用のマッチを擦る時、アルマイトの鍋が煮えたぎる様、火鉢に網を置き、焼いた酒粕や欠き餅、干し芋の香ばしい味、遠い記憶だが鮮明に浮かんでくる。近代の日本では消え去ろうとしている生活感が、メキシコ本国には未だ根付いている現状に考えさせられてしまう。果たして、道具や食材、調理方法に留まらず、そこに存在していた心の一体感や家族の時間の流れこそが、人々としての暮らしの要なんじゃないかと。
料理人を志し、修業を重ね、店を構えてきた道程の中で数えきれないくらいのシェフや親方達と会ってきたが、憧れた方が一人いる。帝国ホテル、元総料理長、村上信夫氏。最初の遭遇は私が中学2年の頃だった。NHKの画面から流れてきた声が胸に刺さった。「私のやる通りにやれば、絶対に美味しいものが出来る、料理は美味しくなければ」。心が共鳴した。ウスターソースやケチャップを使ったハンバーグなどは当時の自分にも分かり易く、皿も本当に旨そうだった。何よりも心を奪われたのは、調理するのが本当に楽しそうで、試食の相手が「美味しいです。」と誉めると、目を細めて満足げに喜ぶ姿だった。技術に裏打ちされたプライド高いホテルの職人なのに、家庭にある材料で簡単に西洋料理を作ってしまう。見事な包丁さばきの工程が進む中で、ひょうきんな顔とアドリブ豊かな説明に引き込まれていた。「ベリーグーです!」と自画自賛するのが正直で、かっこいい小父さんだった。それから時は過ぎ、平成10年を迎えたあたりに彼の人生ドラマを見る機会に恵まれた。戦地で死にかけた友が「死ぬ前にパイナップルが食べたい」と望む。奇跡の思い付きで、凍ったリンゴを甘く煮て切れ目を入れ食べさせた戦友は、生きる望みを抱き一命を取り留める。料理人の生き様に感銘を受けた。さらにNHK、「きょうの料理」の再放送が私の料理に対する思いの影響を受けた遠い記憶を蘇らせる。今なら解る、自分も同じように食材と向き合ってきた。いつかNHKの現場で憧れるムッシュ村上のように振る舞いたい、全国放送でメキシコ料理の真髄を披露できればと思いは募っていった。
念願だったNHK「今日の料理」への出演
朗報の電話が鳴ったのは、2012年も暮れようとしている12月の下旬だった。念願だったNHK「今日の料理」からのお誘いである。大きな喜びに承諾の声は上擦っていた。訪ねてきたディレクターの話によると、「渡辺さんは以前から候補に上がっていました。切っ掛けは、メキシコ料理が、ユネスコ世界無形文化遺産に登録された報道です。」とのこと。世界に類の無い長い歴史の食文化の美味しさを是非、一般家庭に教えていただきたいとの依頼だった。半世紀以上の国民的長寿番組が初めてメキシコ料理に着目してくれた事実は、心から嬉しかった。綿密な打ち合わせが始まった。全国放送であるだけに、離島でも手に入る食材が条件。トルティージャやチレ類の使用は無理だった。サルサ・メヒカーナやワカモーレまでは何とか行き着いたが、そこからが難関だった。食卓への応用は冷や奴や焼いた厚揚げ、豚カツにサルサをかけたり、アボカドディップを手巻き寿司にしたりで上手く纏まったが、本筋ではない。折角の機会、本国ならではの景色が欲しい。ふと過るものがあった。ワカモーレは、今や前菜の定番だが、元々は焼いた肉のソース。代表的な肉料理、タンピコ風ステーキを提案してみた。切り方の特徴や家族で囲むホットプレート調理への活用も可能で、即、OKが出た。しかし、まだ物足りない。主食や出汁の見えない構成は納得がいかなかった。何度か協議を重ねるうち、担当者が「ロケをやりましょう。」と決断する。
スタジオ収録はライブで行われる。でも、主食や唐辛子等の紹介なら録画コーナーで放映できる。素晴らしい進展だった。後日、トルティージャを焼く様や、幾種類もの旨味出汁が出る本国唐辛子の説明を撮り終え、いよいよ本番を待つばかりだった。当日、現場の調理補助スタッフたちに献立の分量と手順を解説しながら準備を進めていた時のことだった。何十年も歴代の名調理人に接してきたベテランばかりである。半信半疑の様子が窺がえる状況の中、試食を勧めてみた。6人全員から驚きの声が出た。「美味しい!先生、これ塩だけですよね!」感嘆の瞬間だった。一気に距離が縮まり、胸に安堵の気持ちが広がっていった。リハーサル中、カメラや音声、ADさん達まで嬉々とした表情で「本当に美味しいのよ。」と彼女達は触れ回ってくれた。もう大丈夫、これで楽しく本番に臨める。与えられた役割はとてもムッシュ村上には追い付かないが、この夢舞台、初のメキシコ料理披露にベストを尽くそうと心を奮い立たせていた。「お疲れ様!」収録が終わった。約20名のスタッフ全員が拍手喝采、司令室からプロデューサーが駆け降りて来た。良かったですと握手を求められていた。感激したのは、その2週間後、調理補助の彼女達が店を訪れ、「どれも全部美味しい。」と誉めてくれたこと。経験豊富な方々に新たな1ページを提供できた達成感が心地よかった。この出来事が更なる事態の発展へ導いて行く。
この時代に私がやるべき事は?
明治、大正、昭和初期の頃の歴史に刻まれてきた我が国の西洋料理は、フランス料理が主たる位置を占め、その味覚にあやかるには、提供している会館等に出向くのが通常で、一般家庭の食卓とは無縁の状況であった。当時、そこに携わった料理人達が独立を果たした時、大衆に分かり易くそれらの美味しさを如何に表現したらよいのか、考えたに違いない。その料理現場で会得した技術をそのままにひけらかすことなく、追い求めた結果がキャベツの千切りが付け合わせのポークカツレツだったり、カレーライスに姿を変えて行く。戦後復興の折からは、ビーフシチューやチキンライス、カツサンドやオムライス等が加わり、中国料理では天津丼や中華そば、さらに伝説の料理人が回鍋肉や海老のチリソースを創作する。凡そ100年の時を有して根付いたこれらは、今や全国の家庭で誰しもがチャレンジできる献立に確立されている。その根源にあるものは、云うまでもなく、食べたくなる美味しさが期待できるから。メキシコ料理に拘って40年、「この時代に私がやるべき事は?」と心が揺れ動くこの頃である。彼らが懸命に拘ってきたものは、やはり、現場第一主義、その日の営業に感動と満足感を味わってもらうベストライブである。手間や労力を惜しまないモチベーションが一皿、一皿を支えている。
NHKの人気番組「朝イチ」から出演依頼の連絡があったのは、「きょうの料理」のが放映後、1か月経った頃だった。お世話になった調理補助の彼女達から熱烈な推薦があったと聞かされた。感謝の気持ちが胸に満ち溢れたのを覚えている。絶好の機会が訪れた。またも全国区のオンエアで披露できる未来への布石を与えられたチャンスを断る術はない。快諾である。後日、試食と打ち合わせに来店したディレクターは、「こんなに美味しいなんて!」とご満悦だった。生放送で15分も出演時間がもらえれば充分すぎるくらいである。当日、店のスタッフ一人と共に早朝7時に局入りして、準備が始まった。サルサやワカモーレの家庭での活用の例は依然と同様だったが、今回は、海老のタコスもゲスト達に提供できた。ライブなので台本はなく、信仰の流れで話は盛り上がり、盛況のうちに終了し、メイクを落としている時だった。顧客である俳優さんから、「渡辺さん、今日も美味しかったよ。」と声をかけられた。期待に応えられた現実にホッとしていたその後、試食できなかったスタッフ達から食べたいと哀願され、残っていた食材で10人前くらい提供したら、大層喜んでいただけた。一瞬ではあるが、メディアの現場に記された美味しさの発見が語り継がれ、いつの日か興味の対象として気付かれるならば、年月はかかっても役目を果たしてゆける思いが心に広がった。驚いたのは、NHKの放送網である。世界で活躍する顧客達から、ブラジルや上海で見たと報告された事。いやはや流石天下の国営放送である。
メキシコ料理が世間に認められつつある実感
JR恵比寿駅の駅ビル、アトレの7階に位置する読売カルチャーで教室を開催してから、早15年の時が経過したが、店を構えた教え子が7名もいる。思うに、授業を体験するうちに、レシピや味の未知との遭遇に驚きを感じ、誰かに披露したくなる気持ちが高じてゆくのかもしれない。料理は基本さえ習得していれば、その表現は無限の可能性を秘めている。同じ調理法でも個々の思いや性格で、それぞれにバラエティに富んだ一皿に出来上ってゆく。しかも、そこのアレンジが加わると、立派な一品として仕上がるものである。つい先日も六本木アークヒルズにタコス専門店を開業した生徒がいるが、美味しさは定評を得ていると聞いている。また、今年、メキシコ現地に武者修行へ旅立った受講者もいるし、現在も近い将来、奈良の飛鳥村でメキシカンを提供するプランで、学んでいる生徒が頑張っている姿を見ていると、世間がようやく本気で、メキシコ料理と向き合い出したんだなと実感している。まだまだ、一握りではあるが、教え子達のこれからの活躍に期待したいものである。教室の評判を聞いて、読売カルチャー本部から出張講座の依頼があったのは、2014年が明けた頃。文京区区民の一般講座と聞いては嬉しい限りだった。夏の期間3回の短期講座、早速カリキュラムの作業に着手していた。
限定回数の一般授業では、出来るだけ内容を詰めて、本国の食文化全般における地域性や歴史的背景、独創性を網羅した上で、解り易く教えることを心掛けている。何よりも大事なことは習得した技術と講釈を食卓で自慢したくなること。基本のサルサの類や牛肉、若鶏、海老等の入手しやすい食材で構成した講座内容に興味を覚えたのか、定員20名は公募初日で満杯となった。当日、午前9時、会場「アカデミー茗台」に到着、7階の現場はガラス張りの明るい状況で調理の設備、器具、食器は完ぺきに整えられていた。アシスタント3名の女子と段取りの打ち合わせを済ませ、11時の開始を待つ。エプロン姿に着替える受講者の大半が私よりも先輩ばかりである。少々戸惑いながら開始した講義だったが、思い切って全員を回りに集め、野菜を合わせる時の瑞々しさや、調理の工程の香りを感じてもらいながら、メキシコで如何に自分がカルチャーショックを受けたのか、話を交えながら進めて行った。戦時中から昭和の20年代を生きて来た彼等が共感する部分が多々あったのか、距離感は縮まり、塩だけの単純明快な調理に興味深々だった。実習の時間も質問の嵐で、懇切丁寧に説明ししながら出来上った料理は見事に完成されていた。「本当に美味しいです!」毎回、会員が喜んでくれた授業の最終回は、帰路につく一人一人から、「楽しかった。」「勉強になりました。」とご挨拶を受けていた。後日、手元に届いたアンケートの一枚に驚いた。殆どが90%台の授業感想の百分率の部分を横に引き伸ばし、200%と表示してあった。「アカデミー茗台」始まって以来の出来事であると聞かされた。
メキシコで修業をしたいんです!
2002年に旭屋出版から刊行した「魅力のメキシコ料理」は、販売元の予測では、当時2000部くらいしか売れないでしょうとの見方で、あまり期待はされていなかった。ところが、初版から2か月でその数字を超え、増刷を重ねて1年たった頃には、5000部に達していた。そして、店には、全国から数多くの調理人達が訪れて来るようになった。ジャンルを問わず、イタリアンやフレンチ、中華や和食を専門とする彼等が、未知の領域の食材やレシピに興味を抱くだけに留まらず、TEX-MEXに偏ったこの国での認識を改めようと料理界に挑んでゆく私のスタンスに何かを感じてくれたようで、四国から上京し、銀座で創作和食を営む板長には、「この本が励みになります。」とサインを求められ、固い握手を何度も交わした。北海道、旭川から店を1日閉めて、お一人で来店されたイタリアンのシェフは、「どれも全部、美味しいです。」と絶賛だった。少し、お話できる時間があったので、本国の唐辛子を駆使した魚介類のパスタを提案してみたら、大変乗り気で、今頃はあの店の定番ができているかもしれない。フレンチの名門「オテル・ド・ミクニ」で仕事をしていた荒井隆宏が訪ねて来たのは、初版を出してすぐの頃だった。真剣なまなざしで、「メキシコで修業をしたいんです。」と哀願された。突然の申し出に驚いたが、嬉しかった。本気だと感じ、相手を見つめ返していた。
それから、幾度も食事に来ては相談を受けた。労働ビザの取得の難しさや、厨房の職場状況を説き、所持金を貯えた上で賃金を当てにせず滞在できるのであれば、私の師匠に紹介状を書くつもりでいた。年が明けて2003年、春にアルゼンチンから、たった1行のメールが届いた。「たった1冊の本が、僕の人生を変えました。」この時は何の意味か全く解らなかったが、後に知ることになる。メキシコ行きを決意し、スペイン語を習得するために知人が経営する横浜のペルー料理店に転職した彼は、そこで衝撃の食材や調理法に出会ってしまうのである。気が付いたらペルーに旅立っていたと、1年後、帰国した荒井君は語ってくれた。孤児院の給食施設の手伝いから始まった調理体験、溢れんばかりの食材と贅沢さに恵まれた我が国とは比較にならないほどの食生活。食材を愛おしみ、食べられることの有り難さ、食生活の原点に触れたことから、調理人の本能が目覚め、その後、数件のレストランで修業を積むことになる。フレンチで培った彼のセンスは抜群のものがあり、披露してゆく創作メニューはメディアの関心を呼び、有名な料理雑誌に何度も取り上げられる程だった。現在、東京の新橋でペルー料理専門店「荒井商店」を構えるだけでなく、家庭料理書、専門書を執筆し、逞しく活躍している。近い将来、学術書を刊行できるのは、荒井君以外には考えられない。楽しみを与えてくれる彼に感謝。
真っ直ぐに使命を貫くこと
メキシコ北部のソノラ州、ここで生産される牛肉は国内でも定評があり、特にARRACHERA(アラチェラ)と呼ばれるハラミ肉のステーキや網焼きに人気が集中している。勿論、すべての部位が様々なレシピで調理されてゆくのだが、本国に限らず、海外では赤身肉の方が好まれているようだ。最上級の柔らかい霜降り肉が珍重される我が国の肉食文化は、特殊な例であろう。昭和の時代、牛肉を提供するホテルやレストラン、ステーキ店等では、松坂や神戸などのブランドや等級で顧客の満足度を確実に捉えて来た。半端な肉は出せない、代官山にオープンした1978年、メニューに組み入れたフィレ肉のステーキは黒毛和牛のA-4クラスを使用することにした。見得があった訳ではない。当時、ジャンクフード的なメキシコ料理へのイメージを一掃するには、美味しさの感動に気付いてもらいたかったからである。玉ねぎやニンニク、人参等の香味野菜をサラダ油に3日間漬け込み、塩だけの調味で焼いた肉にそのオイルを刷毛で上塗りしただけの皿は来店客の度肝を抜いた。この手法は最初の修業先アシェンダ・デ・ロス・モラレスで修得したものであったが、バターや醤油に慣れた日本人への挑戦でもあった。スパイスの香りや辛さを期待した彼等は驚き、「ソースは無いの?」と当然聞かれた。「ありません!」若さが優先した強引な賭けだったが、振り返るとよく通用したものだと思う。
盛り付けには、洋食界で通称「ガニロ」と呼ばれる3色の調理野菜を添え、一品料理としての存在を示し、タコスだけの軽食ばかりじゃ無いと主張していた。食材のレベルに助けられたのか、意外に少しずつファンは増えていった。その中の一人に寺門ジモンがいた。月に1〜2度、このステーキを目当てに訪ねてきては、「いいね!美味しいね!」とご満悦だった。最近は牛肉のオーソリティーとして名を知られているが、この頃には予想もつかなかった。あれから30数年、現在、店にこのメニューはなくなったが、彼との親交は続いている。美食を追い求める姿勢は変わらず、何度も雑誌やTVの取材でラカシータの料理を取り上げてくれたところ、沢山のファンが個々に来店し、「寺門さんと同じメニューで・・・」と注文してくる。報告すると、良かったねと我が事のように喜んでくれた。ある日、人生の話題になった時、おやっさんのように真っ直ぐ使命をもっている人を見て、自分も目標を持つことにした。お笑いも大事だが、ここ数年、志村師匠の元で芝居を勉強していると吐露された。本業以外にも執筆やイベント出演等、多忙を極めている中、趣味も多彩で、私なんかの何倍も活躍している彼が、店に寄ると素に戻るようである。先月も、「だいぶ丸くなりましたね。旧山手通りの頃よりは・・・」と笑みを浮かべながら、大好きな海老のにんにく炒めをトルティージャと共に食していた。
私の人生観が人の役に立つのなら・・・
「今日は渡辺さんに元気を貰いに来ました。」度々、こんな言葉を何人もの常連客からかけられる。30年以上の顧客達からしてみれば、通い慣れた行き付けの店は、美味しい食事と団らん、そして、癒しの場所であるはず。本来なら、店側が彼等に感謝をし、心地よいサービスを提供するのが道理であろう。訳を聞いてみると、私の人生観が理由らしい。メキシコ料理の啓蒙に邁進するだけでなく、前向きで全ての現実を捉えて行く生き方に共鳴を覚えるとのことである。そう言われてみれば、何年、何十年、来店していようと、相手がどのような人物なのか詮索もせず、時には自己体験からの説教じみた話をするのが常だった。唯、一度しかない人生、どの現場にいようと、自分と向き合わないと勿体無いと思っているので、ついつい、仕事に疲れているのを感じると、「人は人、我は我、中々線引きは難しいが、成るようにしか成らない。」などと、教理を説くかのように接してしまう。それぞれが選んだ学業、仕事、自分ができる事で相手が喜ぶのであれば、その道筋に励めるはずである。不平、不満を言う暇があったら、事実を受け止めて、其処を乗り切る積極性が不可欠と考える。飲食店の主人としては珍しいと、褒め言葉かどうかわからないが、個々に誰しもが心の奥底に持っている気持ちではないだろうか。
その依頼は、暮れも押し迫った2009年の12月の頃だった。30年来の常連客の最後に全員から拍手を頂いた共立女子大での講義の様子を話していると、突然、「うちにも来てもらえませんか?」と立ち上がり、両肩に手を置かれた。どこの大学かわからなかったが、メキシコ料理の講義なら断る手はない。ご挨拶は初めてになりますが、と差し出された名刺は、総務省、大臣官房秘書課、課長補佐と記されていた。彼の口から出た言葉は、「来年度の新規採用職員研修の講師を是非お願いしたい。」だった。驚いた、とんでもない事態である。とても私なんかが務まる現場じゃないでしょうと固辞していたら、「実は、毎年、心理学、精神科医の先生方に来て頂くのですが、何人かが鬱になったり、辞める人や、中には自らの命を断つ者までいる状態です。渡辺さんの人生における気持ちの持ち方は、この私でさえいつも元気になります。現状の肯定をテーマに話して頂ければ有り難いです。」というのです。面白いと思った。度胸とか名誉とは無縁の心境だった。自身の話が役立つのなら、こんな嬉しいことは無い。この機会を逃したら、霞が関の省内なんて生涯拝めるものじゃない。経験してみたい欲がフツフツと沸いてきた。やりましょうか、他の職員3名も立ち上がり、全員と固い握手で承諾をした。果たしてどんなドラマが待っているのか、未知の世界は向かう期待感が大きく胸に膨らんできた。
総務省、若者に希望の光を灯す講演
2010年、4月4日午後1時、霞ヶ関駅で出迎えを受け案内された総務省の建物には、警視庁も入っており、各省庁が立ち並ぶ周辺の中でも一際その存在感を示していた。厳重な警備態勢の正面玄関、中央の吹き抜け部分の周りを各階ごとに行政評価や統計の局が無作為に配置され、最上階の大臣室を含めて、まるで迷路のようである。用意された30畳ほどの控室にも驚いたが、引切りなしに、各局の課長さん達が名刺を片手にご挨拶に来室される。事前に了承は得ていたというものの、ネクタイも着用せず、Tシャツに黒のブレザー、スニーカーで訪れた民間の一調理人は彼等の目にどう映ったのだろうか?担当官との進行打ち合わせでも、慣例の起立、礼はお断りした。失礼極まりない態度ではあるが、これまでの慣習打破の観点に繋がればとの思いはあった。地下講堂で待機する新規採用職員達の様子を窺ってみた。早朝から何時間も公務員の心構えの研修を受けてきた緊張感からか、皆、硬い表情に感じられた。厳しい競争を駆け上がってきた中で、それぞれ如何に自分を投影できるかの人生が始まろうとしている瞬間である。私に与えられた役割は現場の彼等に希望の光を灯すこと、講演の時間が迫ってきても自身の気持ちは妙に冷静だった。演壇も退かせてもらい、略歴紹介、講師に選ばれた経緯等、一通りの流れの後、壇上から1脚の椅子とマイク1本で講話がスタートした。
学生時代の社会情勢、アルバイトで気付いた天職、就職してからの上司との軋轢、そして、いじめ。場違いな私が何故、講師を務めているのか、戸惑いはあったに違いないが、60人全員が正面を向き、ノートに克明に記録して行く情景を見た時、思わず声を出していた。「君達の資質より環境に問題があるように思う、上司を呼んで聞いた貰った方が呼ばれた意味がある」と。大きな拍手が起きた。何人もの表情が和らいでいた。提案をしてみた、省の規律がどれほどのものかは知らないが、机の片隅や引き出しの中に物でも写真でも自分の景色を置いてみてはと。横にいた職員が手を挙げた。「先生、それはどのくらいの大きさまで?」呆れて答えていた。「まさか、そんな大きいものを置かないでしょう!」場内に笑いが広がった。国の職務を担う重責はかなりのものだと想像するが、一個人であってほしい。将来を楽しみに頑張ってください。こうして、90分の時間が過ぎ、会場を出た時だった。一人の女子が質問してきた。幼いころから絵が好きだったが、両親が就職を機に止めろと言っている、描かない方が良いのでしょうか?描いている時が楽しいのだったら、激務を熟す合間に描いたらと答えると、突然、有り難うございますと泣き出した。組織の大きさに我を失う不安があったのかもしれない。3年後、一人も鬱になっていませんと当時の担当官から報告が来た。
修学旅行でメキシコの食のリサーチという試み!
「修学旅行」、広辞苑によれば児童、生徒らに日常経験しない土地の自然、文化などを見聞学習させるために教職員が引率して行なう旅行とある。私の時代は訪問先の名所旧跡等を巡る旅だったが、1990年代後半くらいから少し内容が変わってきたようだ。来月、東京に宿泊した折、生徒にメキシコ料理の食文化をレクチャーしていただきたいとの依頼である。クラス50人が6チームを組み、それぞれが国を一つ選び、その国の食をリサーチする試みだと説明を受けた。確かに東京には世界を網羅する数多くの料理店が点在しているが、メキシコを選んでくれたのには驚いた。後日、訪ねて来た子供達は、自らの小遣いで一品ずつオーダーし、用意して来た質問を問いかけ、私の講義を克明にノートに記録していった。数千年に及ぶ独創的な食の軌跡に付随する和食との共通点、それぞれの食材が世界に寄与した貢献の歴史、集落で紡がれた家族の絆等、テーマは尽きることなく、あっという間に約束の2時間が過ぎていた。話が興味深かったのか、彼等の眼差しは喜びと充実感に溢れ、本当にうれしそうだった。1週間後、個々の生徒からの丁寧なお礼状が届くと、担任の先生からも連絡を受けた。「レポート発表の際、あの子たちは意気揚々と自慢げに報告していました。有り難うございました。」と彼女自身が一番感動していた。
その出来事がどう伝わったのか、それから数年間、秋田だけでなく、岩手や青森など、東北各県の中学校から毎年同じ依頼を受ける事態になる。教育現場に携わる経験は自分にとっても有意義な時間だった。そう言えば、以前、2002年の春、北海道帯広で農業、畜産、酪農の生産者たちを招いてのメキシコ料理披露の体験を書いたが、帯広市立柏小学校からのユニークな申し出もあった。ラ・カシータの厨房と教室の児童達がチャットで会話しながら、メキシカンライスの仕込みをPC授業で見せるというものである。日本の主食である米がメキシコではどのように食されているかが題目で、非常に面白い企画であった。生米を油で揚げたり、トマト、レモン汁、小海老や鶏肉を加えてゆく様、弱火のオーブンで蒸らすように仕上げる調理工程は子供たちの想像を超えたようで、興味津々の質問が矢継ぎ早である。慌ただしい時間はすぐに過ぎ、無事に役目は完了した。中南米の事情を教科書に採用しない文部科学省の方針が変わらない限りは、中々メキシコや他の国々に精通する機会は少ないが、私の立場としては料理を通じて何かしら関心を持ってもらえるなら本望である。翌年、もう一度帯広で料理講習を頼まれ、空港から市内へ向かう途中だった。主催者が柏に寄って行きましょうと車を小学校へ乗り入れた。校長先生、教頭先生から是非にと願われ、授業終了間際の教室へ参入した。突然の事態に児童達は大騒ぎである。歓声を静めて少し話を聞いてもらい、将来に期待する言葉で締め括った時だった。「サインください!」の合唱、何と40人全員が一列に並んでいた。通常はノートの筈が、中には筆箱や消しゴムの子がいたりして、笑ってしまった。彼等の素直な笑顔は心地よく記憶に残っている。
第84章 フレッドに感謝をこめて
1976年、渋谷の公園通りに店を構えてまもなくの頃である。一人でふらりと入店した長身の外国人がワカモーレとビーフタコスを注文し、食べ終えたあと、いきなり握手を求めて来た。「Perfect!」を連発しながら大喜びの様子に、私も嬉しくなって、どこから来たのか尋ねてみた。彼の答えは、自分が育ったロスアンジェルスにはメキシコ料理店がたくさんあるが、こんなに美味しくつくる調理人はいないとべた褒めである。現在、早稲田大学に留学中で、学生だから余りお金はないが、又、食べにきますと上機嫌で去って行った。それから、毎月のように来店し、レシピを教えてほしいと哀願された。サルサやトルティージャのポイント、アボカドの扱い等を丁寧なに伝授し、代官山に移転してからも親交は続いていた。4年後、北海道からある知らせが届く。若干27歳で、何と札幌の繁華街に居酒屋を開店したのである。「麦酒亭」と命名された店は、その名の通り世界のビールを揃え、メキシカンの献立が摘みと謳っていた。的を射た彼の発想はすぐに評判になり、市民だけでなく、出張族まで取り込み、店は大繁盛の一路を辿るのである。数々の地元のイベントにも積極的に参加しては、その明るい人柄で人々を魅了し、やがて名士となるが、胸の内に渦巻いていた事業欲がどんどん膨らんでいた。
酒類販売の資格取得し、市内にビルを購入して、株式会社「えぞ麦酒」を起ち上げた時、即連絡が来た。「渡辺さん、ほしい物があったら何でも言ってください」。丁度、その頃、我が店で人気があったテキーラが製造中止になり、困っていたので、お願いしてみた。現地まで買い付けに出向き、見つけてくれたそれは、日本酒に例えるなら純米、吟醸タイプ。クォリティーも申し分ないが、名の由来が洒落ている。「TRES MUJERES」、スペイン語で3人の女性の意だが、メキシコ人は家族を非常に大事にする、祖母、母親、娘が家を守ってくれるから、男は仕事に精進し、帰宅後の安らぎがある。そんな思いが込められたボトルは皮革で被われ、手作り感溢れる素敵なデザイン。ラ・カシータの料理と相性も良く、顧客の心をとらえて離さない存在となっている。振り返れば39年の付き合いになるが、東京に来る度に「逢いたい」と電話があり、当初の出会いに感謝していると毎回のように云ってくる。恵まれた関係はこちらの方が心底、謝意を持っている。あの頃はスリムな長身のイケメンだったが、還暦を迎えた今、100kgの体格を持ち、髭を蓄えたその風貌は、まるでサンタクロース、誰が見ても憎めない好好爺になっている。彼の名は「フレッド」私にとって掛け替えのない大事な友である。
第85章 ラ・カシータ知名度向上の演出者と芸能界へのつながり
代官山、旧山手通りにOPENした1978年ン、春、高木君がひょっこりと顔を見せた。渋谷、公園通りにラ・カシータを創設できる出会いを演出してくれた男だ。「高木プロ」を設立して女優を育てているという報告だった。白都真理、星野知子、和由布子、のちにドラマ、舞台、映画で名を知られてゆく顔ぶれが揃っていた。ある大物作詞家の元で教えを受けながら局の現場に出入りし、人脈を築いてきた経験は、発掘した有能な表現者を開花させるには充分すぎる条件が整っていた。「渡辺さん、お願いがあります。」とおもむろに切り出した彼の要望は、所属の彼女達が取材を受ける場所に店を利用したいという話だった。雑誌の撮影やインタビューの席、迷惑じゃないでしょうか?と遠慮がちに申し出る態度に好感が持てた。片隅に店名を表記してもらう約束で快諾した。マネージメントの辣腕ぶりは群を抜いていて、毎月何社も女性誌や月刊誌にテラスの情景や店内の雰囲気が掲載される状況となった。そして、今度はTV放送の協力に繋がってゆく。真理さんや知子さんが当時、高視聴率を上げていた高島忠男夫妻の料理番組に出演する際、簡単に美味しくできるメキシコ料理を披露したいのでレッスンしてもらえればの申し入れはこちらの方が嬉しかった。決して器用ではない二人でも手軽に習得できた卵の一品や海老の一皿はスタジオでも好評を得、一瞬ではあるが、全国にその味覚が波及した。
メディアを駆使して事務所の女優達を知らしめる彼の敏腕さが、結果的に店の知名度も上げる相乗効果に至るとは、頑なにメキシコ料理の啓蒙に凝り固まっていたその頃の私には真似のできない才能の発揮ぶりだった。フジTVの昼の看板番組「笑っていいとも」のトークコーナー、ゲストに送られた電報を紹介する部分でも、一番に電文とラ・カシータの名が読まれた。くじに当たったように捉えていたが、思い返すと誰かの思惑があったのかもしれない。おかげでタモリさんも来店するようになり、毎日のように芸能界の方々が訪れる日々が続くことになるが、写真もサインも求めず、ただひたすらにメキシコ料理が持つ美味を提供し続けるスタンスに共感してくれた男がいた。「相棒」の杉下右京役でその名を全国に知られる彼。まだ、20代半ばでドラマの主役を勝ち取り、蘭さんとのデートを重ねていた頃だった。あれから37年、現在も親交は続いているが、会計の折、屈託のない、あどけない笑顔で「なべちゃん、本当の美味しかった。」と擦り寄ってくる人柄は変わらない。役者は大したものだと感心する。彼との接点の中でいくつか書いてみたい話があるが、亡くなられた宇津井健さんとの出来事を次回の章で。
第86章 人のつながりが起こした奇跡の出会い、人生の友!
それは、2010年夏の頃である。いつものメニューを口に運びながら寛いでいた宇津井健さんが突然、「大将、水谷豊君はいつ頃からこの店に来ているの?僕の方が古いよね?」と尋ねて来た。宇津井健さんが他の芸能人を話題にするのは極めて珍しいことだった。訳を聞くとTVドラマ撮影で初めて共演、二人共メキシコ料理が好みとわかり、店が話題にのぼったらしい。その際、自分の方が先とお互い譲らなかったと説明された。まるで子供の喧嘩のような話である。本当は水谷君が2年くらい先なのだが、「同じくらいでしょう。」と答えると、そうかと頷き、満足そうな笑みを浮かべていた。店に愛着を感じている気持ちは殆どの常連客から伝わって来るが、この時ばかりは妙に嬉しく思ったのを覚えている。後日、来店した水谷君からドラマの内容を聞かされた。難関の手術を我が国で屋締めて成功させた心臓外科医の話は非常に興味深く、先駆者として未来への扉を開くその医者の奮闘ぶりに、僭越ながら自分の思いを重ね合わせていた。放映は正に劇的だった。胃の血管を切り、心臓の治療に使う発想は賛否両論で、避難を浴びながらも医療に果敢に挑戦して行く姿や、肥大した心臓を切り取り、縮小して新たに形成するバチスタと呼ばれる手術を一度失敗しながらも、亡くなった患者の妻からの手紙に記された、「主人は希望を持ち、術後もすごく元気でした。それは事実です。どうか、止めないで続けてください。」との感謝の言葉で立ち直り、その後何十人もの命を救ったのである。
心臓外科医の頂点を極め、神の手を持つと評される彼が、奥様とラ・カシータを訪れたのは、その年の初秋の頃だった。「須磨です、水谷さんから美味しいメキシコ料理店だと聞いています。楽しみです。」普段は誰に対してもあまり緊張しないが、それを誘発させる距離感があった。前菜、タコス、一品と食事が進む中、二人に微笑みがこぼれたので、少し安堵し、「如何ですか?」と問いかけてみた。「全部、美味しいですね。」と絶賛される言葉が関西訛りだった。「関西はどちらですか?」と出身を聞くと、「神戸の岡本です。」驚いた、何と私が生まれ育った場所で、年齢も一つ下、しかも中学、高校のクラスメートは共通の遊び仲間。偶然どころの騒ぎではない。またたく間に距離は吹っ飛び、学生時代に買い物や食事をした店、屯していた喫茶店等の話題で盛り上がり、もう同窓会の様である。医者を志した動機や奥様との馴れ初め、同級生との悪事の数々などプライベートな話は尽きることなく、時の経つのを忘れた夜だった。それからは地元の友人達を連れての来店が続き、最近は親しく「庸ちゃん!」と呼ばれる状況である。世界が認める実績と更に未知なる医療へ挑む彼とはとても比較にならないが、メキシコ料理の啓蒙に邁進する私を、知人達に称賛しているのを聞かされると有り難く誇りに思う。これからも人生の同士として付き合いたい。彼の名は須磨久善、我が良き友である。
第87章 突然の転機から成功を導き出した男とは・・・
高木君が自分の遠縁にあたる男を連れて来たのは、代官山旧山手通りに店を構えて1年も経った頃だった。レコーディングスタジオのミキシング技師を目指して音響専門学校に通っているが、授業料が高くて飯も食えない、賄い付きでアルバイトとして雇って貰えないかとの申し出だった。丁度、人手が欲しかった時期でもあり快く承諾した。住居は偶然、店の隣にある賃貸住宅に空きがあり、現況は四畳半一間で風呂もなく、トイレは共同だったが、格安の家賃で入居できた。好都合なことに当時の代官山の一角には店から歩いて5分の距離にある同潤会のアパートに銭湯があった。何よりも遠い横浜から通っている私には休日や夜中に何かあっても対応できる管理人が居てくれるような状況が生まれたのである。まじめな性格で、学業の傍ら毎日よく働き、よく食べ、よく笑い、ラ・カシータのメンバーに相応しい男だった。2年後、残念ながら大手レコード会社、各社の試験には合格しなかったが、高木事務所の女優達のマネージャーを務めるようになる。ずっとぼろアパートに住み続け、裏口から顔をのぞかせては賄いの残りをせがんでいたのが記憶にある。魔性の女と評された女優に付いた頃は余りの我儘ぶりに閉口していたが、持前の明るさで泣き言も言わずただひたすら自分の仕事をこなしていた。
20年も過ぎた頃だった、そんな彼に転機が訪れる。四国、徳島で農業を営んでいた父親を交通事故で失ってしまう。残された母親は途方に暮れていた。一万平方メートルもの広大な作地を仕切れる者がいない現状を悩んでいたが、TV東京の番組制作等、業界では顔も売れ、乗りに乗っている状況はすぐには閉ざす訳にはいかなかったのである。暫くして連絡があり、話を聞いてほしいと相談を受けた。彼の発案は素晴らしかった。自分は故郷に戻り、都市住民訪ねてくる癒しの村を設立するという企画である。つまり、果樹オーナーを募集して、彼等と共に農業を継続させるアイディアだった。都会の喧騒を忘れ、田舎暮らしの体験による「ゆとり」や「やすらぎ」の場を提供し、さらに宿泊施設も完備する。脱帽である。是非やるべきだと賛成し、朝まで語り明かした。確信を持ち実行に移して、あれから10年余、阿波の名産のスダチ、みかん、柿、甘夏や桃、びわ、ざくろ等、様々な柑橘類に留まらず、筍、ミョウガ、タラの芽などの山菜類、四季折々の農作体験の希望者は引きも切らず、親の遺産を見事に開花させたのである。炭火の囲炉裏に吊るした鶏つくね鍋を囲む古民家の宿は、地元の情報誌に度々取り上げられ、県外からの一般客も多く訪れると報告があった。先日、組合の用事で上京、メキシコ料理に舌鼓を打ちながら、いつの日かトルティージャも献立に加えて、創作料理の域を広げたいと冗談ぽく笑っていたが本心だろう。彼の名は、原幸喜、宿は碧(あおい)と命名されている。
第88章 森公美子さんのじゃが芋嫌いを変えたメキシコ料理
維新を機に明治10年頃我が国に開館された西洋料理の現場では、諸外国国賓をもてなすためにカレーやカツレツ、ビフテキ等が調理されていたが、まだまだ庶民には
程遠い存在だった。時は流れ、大正12年の関東大震災後、一軒の店で和・洋・中での日常料理が食べられる大衆食堂が出現したことで広く知られるようになる。そこで生まれたカレーライスやオムライス、ハヤシライスは絶大な支持を得て世間に定着してゆく。それからおよそ100年の食の歴史は、私達の食卓の風景を大きく変えた。カツカレーやカレーうどん、麻婆丼、最近では明太子スパゲッティに至るまで生活に馴染んでいる。メキシコ料理がその領域に近づくのはまだ時間が掛かりそうだが、NHKの「きょうの料理」で披露したように日本の食材との相性は抜群である。その美味しさを表現できる料理人が増え、提供される食事処が数多くあれば、前述のようにいつかはその時代が来ると信じている。常々そんな事を思っていると朗報がやって来た。BS日テレ7から電話があったのは2014年の春だった。オペラ歌手の森公美子さんが主導する大人のための健康料理バラエティー「千客万来!森クミ食堂」への出演依頼である。送られてきた企画書には「もっと美味しく、もっと健康に!」をテーマに様々なアレンジ料理と記されていた。千載一遇の好機到来である。後日、来店したディレクターとの打ち合わせで、メキシカンを基盤にした創作料理の妙味と、感動の美味しさに出会える幾つかの献立を提案してみた。
身近に揃う食材で構成したアイデアに担当者は喜び勇み、「収録が大変楽しみです。」と去って行った。当日の朝、店のスタッフ一人を伴い、三軒茶屋近くの小さなスタジオに出向いた。初めてお会いした森さんは優しくて朗らかで、現場の緊張感はなく、フランクな雰囲気は気持ちを楽にさせてくれた。フレッシュなオクラを加えたサルサ・メヒカーナを焼き鮭に添えたもの、同じサルサを豆腐や薄切りトーストに乗せた一品は絶賛だった。トークも弾み、リラックスムードで4週分の撮影は進行してゆく。アボカドディップを温野菜やマリポーチーズ絡める皿やカニ蒲とカイワレをワカモーレで巻いた手巻き寿司に彼女は大興奮、「本当に美味しい!」のコメントに、プロデューサーがカメラの後ろから指で丸を作って私に示してくれた。最後の週の冒頭、じゃが芋が登場すると森さんからの爆弾発言、「私、じゃが芋大嫌い!」、びっくりした。聞いてないし、進めるしかない。トマトを主にしたランチェラソースを炒めた牛肉に加え、ポテトチップスに乗せる工程で、薄くスライスしたじゃが芋をラードで揚げている時だった。聞こえてきた声は「なんていい匂い、私、この時点でじゃが芋が好きになりそう!」、油切りに置いた瞬間、手が伸びて来た。摘み食いである。美味しさに気付いたこの料理はお代わりまでしてくれた。嬉しかった、10時間に及んだ収録に疲れてはいたが、充足と達成感に心地よかった。
第89章 メキシコ料理表現者としての使命
1964年開催の東京オリンピック、その舞台裏を記録した番組が放映された。世界各国から来日する約700人の選手達の食事を全て賄う料理人の奮闘ぶりが描かれていた。帝国ホテルの村上信夫氏の呼びかけに応じて全国から集まった300人の料理担当者それぞれに惜しげもなくホテルのレシピを渡し、一年半かけて教育実習を行なうのである。貴重な映像が残されていた。メキシコに関しては未知の領域のため、ムッシュ村上本人が大使館まで出向いて教えを請うのだが、「CHILLE CON CARNE」を要望しているのである。思うに英語の料理書を参考にしたのだろう。しかし、大使館の賄い婦が調理している映像を見ると、ラードと塩で煮豆(フリホーレス・デ・オージャ)を作り、牛挽肉を加えていた。相手の立場を考慮して講習したと推測されるが果たして選手村の現場ではどうだったのだろうか?当時、私はまだ高校生、時を遡ることが許されるのなら、是非、お手伝いしたいと画面を追いながら感じていた。唯、村上氏の実行力には心底敬服する。町場ホテルのコックが共に仕事をするなど考えられない時代である。やはり料理への追及が熱意を促し、タブーとされる状況を覆して行くのだろう。メキシコ料理の道筋は課題が多いが、表現者が増えることで前途に光明は見出せるはず、近年、中南米に興味を持つ若者が店を訪ねてくるので少しは期待できるかも。
福井の海岸ホテルの料理長とセコンドが、メキシコ料理のレクチャーをお願いしたいと訪ねて来たのは2002年の2月頃だった。サッカーのワールドカップで合宿予定のメキシコチームに提供する食事が皆目見当がつかなくて、大使館に相談したら、ラ・カシータを紹介されたとの説明だった。丁度、専門書を刊行したばかりだったので、基本のサルサを使った幾つかの皿を食べながら、レシピとポイントを読んでもらった。青唐辛子や鷹の爪でもできなくはないが、本国の食材を扱う業者から購入するのが最適、そして、スパイスに頼らず、塩と風味を持つ乾燥唐辛子の旨味や香りが海鮮や肉、野菜を成就させる話に聞き入り、熱心にメモを取っていた。気に入ったのは燻煙唐辛子を使ったサルサ・チポトレ、トマトが主の単純明解なサルサ・ランチェン、鋭い辛さのサルサ・ロハでどれも全部美味しいとの評価を頂けた。調理人だけに飲み込みは良かったが、トルティージャに関しては練習が必要で、できなければパンやメキシカンライスで補うように勧めてみた。ハンバーグやステーキ、煮込みなどへの応用を提案したら、大変な喜びようで、二人から固い握手でお礼をされ、使命を果たした充実感に満たされた夜だった。後日談になるが、八百長疑惑で解任されたアギーレ氏は当時のチームの監督で全日本の重責を引き受けた理由の一つに、合宿のホテルの料理が美味しかったからとのコメントがあったとサッカー関係者から聞かされた。自書を読破し、実践してくれた、あの時の二人にも感謝である。
第90章 ケサディージャを6人前平らげる大食漢
「どうやって食べるの?」開業当初、よくこんな声を耳にした。実は強い思いがあり、軽食ではなく、一品としてタコスを認識してほしくて提供するのに皿を使いパセリとレモンを添えていた。本国ならば、紙一枚でも通常だが、料理の全体像に導く啓蒙に凝り固まっていたのである。ナイフ、フォークをくださいと云われても断る態度は異状だったに違いない。確かに温かい物を手掴みで食べる行為は行儀が悪いとされる時代、ホットドッグくらいしか思い浮かばないはずである。ハンバーガーが上陸して少しは変化があったが、デパートのティールームでナイフ、フォークでサンドイッチを召し上がるご婦人を目撃したこともある。焼きたてのトルティージャ、熱々の具材に冷たいサルサの組み合わせにもかなりの抵抗感を示された。時間は掛かるが人々の認識を改めるには、誰しもが同じ食べ方をしている光景を作り出すことだと強く感じていた。その頃の自身の記憶は曖昧だが、常連の顧客から「本当に頑固だった。」と今でも話題になるので、相当の物だったのだろう。この40年の足跡でメキシコ料理はタコスだけではないとの理解は定着したが、最近よく聞かれるのは「メキシコ料理に魚料理はあるの?」の質問である。新聞、雑誌、TVの各メディアがもっと情報を発信し、多くの日本人が本国の料理に興味を持ち、修業に出かけ、調理人が増えるにはまだまだ先の話だが、POCO A POCO(少しずつ)前には進んでいる実感がある。我が人生の時の中で、いつかはその景色を見てみたいものである。
2008年の夏の頃だった。アメリカ人の若者が一人、玉蜀黍の生地でチーズを包み揚げた、ケサディージャを食べながら「これ、お母さんの味なんです。」と話しかけてきた。親の名を聞いて思い出した男がいた。ピーター・マッキャグ、渋谷公園通りの店から通い続ける客である。当時、国際基督教大学の英語教師だった彼はケサディージョが大好きで何と6人前を平らげる大食漢、その後、日本人の彼女ができ、デートの度にその満足そうな彼の笑顔を見つめ、とても幸せそうだった。ある日、彼女にレシピを教えてほしいと哀願された。マサ(生地)の練り方、チーズの種類、油(ラード)の温度、サルサのポイント等、練習が必要だったが、何度か教えるうちに上手に作れるようになり、定期的に店で食材を購入しては彼のために調理に励んでいた。やがて彼がニューヨークの大学に呼ばれ、しばらく会えなくなったが、現地では食材が豊富で、子供のおやつに作っていると里帰りの度に話してくれたのを覚えている。ピーターは優しい性格で来日すれば必ず来店し、時にはフロリダにある同じ店名のLA CASITA(メキシコ料理店)のTシャツを土産に持って来たり、店の存在を身内のように感じているようだ。米国にもメキシコ料理店はあるが、たぶん世界一だと思うと絶賛してくれるので、照れ臭いが嬉しい限りである。現在は秋田にある国際基督教大学の副学長にまで出世したが、人となりは20代の頃のまま変わらず、家族と尋ねてくれては、やはり、ケサディージョをメインに食事を進め、若い時と同じように良く食べる。年齢はそう違わないがお互い元気でいたいものだ。
第91章 友、鳩山邦夫氏に想いを馳せて
1978年、代官山、旧山手通りにオープンして2年も経った頃は、有り難いことにほぼ連日予約満席の状況が続いていた。そんな大盛況の中、毎月のように予約の電話が入り、空席が無ければ並んでも待つ思いの男が一人いた。先日亡くなった鳩山邦夫である。ミュージシャンや映画、演劇の著名人は数多く来店していたが、政治家は稀な存在だった。最初の頃の顔ぶれは奥さんのエミリーさんや秘書達だったが、段々とまだ小さかった子供達も加わり、8人から10人くらいに増えていった。皆、食欲旺盛で注文の量は半端じゃ無く、前菜からスープ、全種類のタコス、海老、鶏、牛フィレ肉、メキシカンライス等、店のメニューを食べ尽すくらいの勢いで食事に没頭していた。世界の蝶のコレクターとして知られているが、大の料理好きで東京の自宅にはプロ仕様の厨房を設置し、赤坂の一流店にも負けない腕だと豪語していたが、ラ・カシータの味だけは真似出来ないと、少し悔しそうに褒めてくれたこともあった。国政の話には、まったく触れず、唐辛子やとうもろこし等メキシコ食材に興味津々で、特に大好きだったトルティージャスープのレシピをレクチャーしてからは何度も挑戦していると逢う度に報告してくれた。
偉ぶること無く、優しい男だった。2002年に刊行した「魅力のメキシコ料理」の執筆に奮闘している頃、現在はスーパーでも売られているハラペーニョやアバネロのフレッシュが当時は入手困難で、図鑑を構成出来ないと零したことがあった。何と数か月後、秘書の方が来訪し、「鳩山からこれを是非、渡辺さんに」と渡された中身は正にその2種類のチレだった。本国から種子を取り寄せて自宅の畑で栽培したと聞かされた時の感謝は今でも忘れない。早速、お礼の電話を入れたが、本人は「喜んでもらえれば・・・」とさり気なく言うばかり、実際は大変な苦労だったと推測する。九州に選挙区を移してからは、1年に2回程度の来店になり、味が恋しいのか、エミリーさんが「彼の為に私が教室に通うわ。」と言い出したこともあった。長男が代議士を志した時も連れて来て、「ここの料理で元気をつけろ。」と嬉しそうな笑顔で語り合っていた。一昨年、珍しく一人でやって来て食事した際、落ち着かない様子で何か云いたげだった。満席だった為、ゆっくり話せずそのまま店を出たが、今思えば、病気のことを告白したかったのかもしれない。過酷な仕事の現状が何時の間にか身体を蝕んでいたのか、残念な気持ちでいっぱいである。同じ昭和23年生まれ早すぎる友の死は悲しい。心よりご冥福を。
第92章 「お客さまは神様」の時代の無謀な挑戦
振り返れば渋谷公園通りの時代は随分と心の中に葛藤があった。世の中のメキシコ料理に対する大きな偏見をどのように修正していくのか、商いを続けながら難しさに悩んでいたのである。日々の顧客とのやり取りからそれを分析していく時間が過ぎていった。勿論、初めての美味しさに気付いた者達も応援を約束してくれたが、その数には限りが。時は1977年、世間は「お客さまは神様」の風潮である。如何に気に入られるかが繁盛店の条件だった。その向き合い方では、いつまで経ってもメキシコ料理は理解してもらえない。たった1年半の場所ではあったが、まるで音楽や舞台のリハーサルのように主張すべき部分が多々見えて来たのである。代官山、旧山手通りの開店準備に奔走する1か月間が答えを導き出していた。それは「相手の思うようにさせない。」、「言うことを聞かない。」の二か条であった。言葉で示すとかなり強引ではあるが、何故?の視点で真正面から向き合って欲しかったのである。気に入らないならそっぽを向いて貰って結構、興味があるなら足を踏み出してと、まるで喧嘩ごしである。ここまで継続しているから平気でこんなことを回想しているが、当時は挑戦者として必死だった。まず、酒を殆ど置かない店として認識して貰うことから始まるが、とても大事な件だった。
メキシコが陽気な国のイメージからなのか、飲んで騒いでが相手の思い込み。そこをはぐらかし、前菜から一品料理の彩りを楽しめる時間を提供する場所にするには、ビール(テカテだけ)、ワイン、カクテルはマルガリータとサングリアのみ、テキーラは一種類、そしてワイン以外は価格も料理より高い設定にした。極め付けはウイスキーを除外したことである。現在でもメニューにはないが、この時代はレストランでは水割りが当たり前、飲食店に対する相手の常識を否定して甘えさせず、全てを例外にして初心者に戻って欲しかった。隙を作りたく無かったのと泥酔者は面倒と感じていた。昭和の頃は酔うと、言いたい事を喚き、覚めると全て酒のせいにする、そんな客は御免だったのである。そして、以前にも触れたが、注文は聞かず、メニューを見て伝票に手書きで記入して貰う。何もかもが初体験の状況だとすると、どこの誰であろうと同じスタートラインからなので、皆、横並びで歩み寄る意識に変わり、段々と定着していった。何よりも好結果を招いたのは、知識層はともかく、酒に溺れる年配者を排除でき、未来を先取りする若者達を取り込めたことであろう。代官:山の土地柄に恵まれた旧山手の顧客達は、あの店を懐かしみ、そして頑なな対応を語り継いでくれている。
第93章 食用サボテン供給の救世主に感謝
メキシコの象徴とされる「サボテン」。メキシコを主題にした米国の映画には必ず風景に映ったり、竜舌蘭が原料のテキーラもサボテンの酒と勘違いされるほどその印象は根強いものがある。私も本国へ渡るまではサボテンが溢れる中に街があると思い込んでいた。修業当時の1974年、すでにメキシコ市は高速道路や地下鉄が完備された近代都市であり、余りの情景に驚いた記憶がある。しかし、彼等の食生活には欠かせない食用のサボテンがあった。NOPALITO(ノパリート)と称されるそれは、ビタミンやミネラルの栄養価に富み、体内の老廃物を排出する成分を持つ優れた野菜で、全国のスーパーやメルカード(野外市場)では山積みで売られている。家庭ではそのままのステーキや茹でてサラダ、煮物、スープの具材、肉類との炒め合わせ等、一般的な惣菜として親しまれ、タケリア(タコスの店)、定食屋、レストランの献立としても定番である。例えるなら我が国のインゲンとオクラを合わせたような味わいで、青っぽさと少しの苦みが特徴であろう。長年、メキシコ料理店を営む中でこの食材を切望していたが築地の市場にも使えるものは無かった。救世主が現れる。その男が訪ねて来たのは、2000年の秋の頃だった。きっかけはその前年の「地球の歩き方」に載った私のインタビュー記事である。メキシコ行きを決意した出来事や、地を這うように探求した体験が披露されていた。
来訪の前に届いた手紙には、自己紹介と記事に感動した思いが便箋11枚に綴られ、「是非、お会いしたい!と熱望の言葉で括られていた。常緑多年草(サボテン科)の研究のため、滞在していたメキシコでそれを読み、仕事への向き合い方が自分と共感する部分が多々あると語り始め、この国のサボテンに対する誤解を解きたいと、強い思いを吐露してくれた。3時間に及ぶ対談で意気投合し、別れ際、「何か、自分に出来ることはありますか?」と問いかけて来たので、入手困難の食用サボテンの件を話したところ、即座に「私が作りますよ、専門ですから。」と夢みたいな答えが返ってきた。群馬、桐生で11棟ものハウスで常緑多年草を育成している彼にとってはお手の物だったのである。数か月後送られてきた現物に驚愕した。何とあるべきトゲが無いのである。品種改良して余計なものは取りましたと簡潔に説明してもらったが、流石の技に感心するばかりであった。扱い易い上に一年中安定供給の状況が生まれ、顧客に提供する内リピーターが増え、特に、フレッシュサボテンジュースは人気メニューとなって行った。このまま交流が続くと安心していたが、2013年の冬、天候異変の悲劇が彼を襲う。2月の大雪で殆どのハウスが倒壊してしまうのである。電話が鳴り、「申し訳ないが、もう出来ない。」と告げられた。慰める言葉も見つからず、ただ再起を祈るだけだった。その後、連絡は途絶え、音信不通だが元気でいて欲しいと思う。サボテンの開拓の先駆者、島田明彦に心から感謝である。
第94章 メキシコ料理を知らしめるための起爆剤「ワカモーレ」
渋谷、公園通りから代官山へ移転した頃、一番の課題はメキシコ食材の調達であった。トルティージャを調理するのに必要な硬粒種のとうもろこし粉は、大学の先輩が輸入してくれたが、唐辛子の類を揃えるのはまだ難しく、見本程度の量を大使館から分けてもらい、何とかメディアの取材には対応していた覚えがある。当時は1ドルが360円、買い付けにメキシコへ出向く資金も無く、輸入物は全て高値を強いられ原価が半端ではなかった。幸い、赤唐辛子とグリーンチリは渋谷開店当初から使えたのでそれを駆使して前菜から一品料理の献立を構成し、少しでも本国の味覚が伝わるように奮闘していた。そんな状況の中、どうしても出したかったものがあった。アボカドディップのワカモーレである。メキシコを代表するタンビコステーキのサルサとしても外すことのできないメニュー。アボカドは今でこそ世間に親しまれ、どこでも安く購入ができるが、この頃は高級食材として一部のフルーツ店に飾りのように置かれていた。価格は1個500円くらい、アルバイトの時給が350円〜400円の時代である。広尾や青山辺りでは米国メーカーの粉末やダイスキューブの冷凍物は売られていたが、余りにも粗悪品でとても使えるものではなかった。オーセンティックな皿を提供するには高くてもフレッシュを使用しなければと決断し組み入れたが、価格はタコスの倍以上になりとても高価な前菜だった。
不安を胸に抱きながらのスタートだったが、オーダーが入ればその都度、瓶の底で果肉を丁寧に潰し、一晩寝かせたサルサを混ぜ込んで仕上げる旨さは絶品で、半年もしない内に注文が殺到する事態に進展して行く。恵まれたのは、近辺の料理店が一流ばかりで味に定評があり、美味しければ金額に糸目を付けない富裕の方々が代官山を訪れていた風潮だったことだろう。特に諸外国の来店客達に好評で、一度食べれば病み付きになると絶賛のコメントが続き、高いけど美食家が通う店として定着して行く運びとなる。憂慮は確信と変わり、手間を惜しまず献立にベストを尽くすスタンスは顧客の期待を裏切らず、ワカモーレの定評は現在も継承されている。思い返せば、神戸で仕事をしていた頃、翻訳した料理書でそれを知り、見かけて購入したアボカドは果肉に筋が入っていて、果肉の色は黒ずんでいた。こんな果物が何故、材料なのか疑問だったが、本国に渡り、新鮮なアボカドが持つ濃厚な味を体験できたことが発見であり、日本にこれを伝えなきゃと感じた出発点だった。まだ、選び方も難しい面があるが、近代、様々なジャンルの料理人が調理に多用する傾向にあり、実に使い勝手の良い万能の食材として知られてきた存在に、時流の必要性を感じているこの頃である。メキシコ料理の素晴らしさを知らしめて行く道程のなかで大きな起爆剤としての要素を備えているワカモーレの活躍は必然とも言える。
第95章 友人ギタリスト佐橋佳幸と奥様の松たか子さん
代官山、旧山手通りの開店準備を進めている頃、心に一つ決めていた思いがあった。それは、ソンブレロ(金、銀の糸で刺繍された広ぶちの帽子)やポンチョ、サラペ(肩にかける布)を店内に置かない事。確かにメキシコを象徴する飾りには適しているが、丁度、日本人が皆、羽織、袴で刀を差し、芸者と過ごしていると思われている勘違いと同様で、かなり抵抗があった。看板にも派手な粉飾はしなかったため、客のいないときは手作りのテーブルや椅子を見て、家具屋と間違えられた出来事もある程である。イメージの先入観を排除した上で、とにかくメニューを見て注文した品を口に入れてほしかった。強引だったがスペイン語の料理名を知らしめるため、伝票に自分で描き込み、味覚から気付いてもらう作戦は、日々の営業の中で徐々に浸透していく運びとなる。音楽もマリアッチやトリオは流さず、ムシカ・ランチェラ(各地域の民謡)ハローチョ(ベラクルス音楽)をBGMにしていた。その頑なな姿勢に感動してくれた男がいた。後に日本を代表するギタリストとなる佐橋佳幸である。まだ、譜面も満足に読めなかった学生時代からの付き合いだが、素直で明るく、無邪気な彼はギターの音を通じて自分を表現する感性にもう目覚めていたのであろう。1983年、高校の後輩にあたる渡辺美里のプロデュースで見事にその才能を開花させる。因みに一つ先輩はEPOであるが、縁があって彼女のコンサートやレコーディングに参加したパーカッション(民族楽器)の第一人者、渡辺亮は私の従兄弟で、共によく来店していた。佐橋はそれを知らず、随分後にその事実を確認することとなる。
ワカモーレ、海老にんにく炒め、若鶏のモーレソースが大好きで、いつも目を輝かせて貪るように食べていた。最初の頃は音楽仲間と来ていたが、40歳過ぎの頃から若くて綺麗な女性と付き合うようになり、デートを重ねていた。松さんに似ているなと思っていたが、まさかの松たか子さんとは思いも寄らなかった。しばらくして彼の為に教室に通いたいとお願いされた時は驚いた。しかもレシピ本にサインまで頼まれた状況は、全く立場が逆である。彼女も純粋で気取りがなく、仲睦まじい二人は結婚にゴールしたが、独身時代と変わらずそのままの雰囲気である。先日、松さんから「TVの番組なんですが、私の好きな店にラ・カシータを推薦してもいいですか?」と遠慮がちに連絡があったが、光栄なことである。放映されたTBSの「王様のブランチ」のおかげで連日、盛況の日が続いている。子育て、仕事に忙しい中、たまに顔を見せてくれるが、「本当にいつも美味しい!今日、来られて良かった。」と、佐橋の天真爛漫に振る舞う様は若い頃のままである。まだ実現していないが、いつか教室に来られた際には彼の為にもしっかりと伝授したいもの。このカップルだけでなく、一般の方々もそのようなケースが多々あり、16年に及ぶ恵比寿の現場で教えた相手は数知れない。本国の食文化が培った独創性溢れる料理が醸し出す味の妙味が、人々の心を捉え、その探求心を引き出す魅力は素晴らしいものである。近い将来、各家庭の食卓にメキシコ料理の品が並ぶかもしれない。
第96章 TBSの「新チューボーですよ!」に心から感謝!
2016年12月24日、TBSの「新チューボーですよ!」が、とうとう幕を閉じた。22年の歳月を誇る長寿番組である。思い返せばメキシコ料理の献立の度に出演依頼があり、街の巨匠として王道のスタイルを披露する事ができた。基本のトルティージャの生地の練り、伸ばし、焼き方から始まり、タコスやエンチラーダスに絡むサルサの調理に関しても、食材を切る最適の大きさ、配合バランス、熱の入れ方、塩加減等、細かい指導VTRが幸いしたのか、5回のオンエアのうち、三ツ星を4回獲得している。この番組だけは私自身が参加できないので、スタジオの堺さんの手腕に託すしかないのだが、ラ・カシータの調理手順を選択して貰えた結果には大感謝である。最後の出演は2016年の春だった。数年前、メキシコ料理がユネスコ世界無形文化遺産に登録された件もあって、今回の製作スタッフは意気込んでいた。お題は「ビーフタコス」だったが、冒頭でタコスを10種類紹介したいのでお願いできますか?との注文が来た。本国では100種を超える具材があるのだが、我が国で馴染みのないものを選ぶことにした。食用サボテンと豚肉の炒めもの、真鯛のフリッター、若鶏の唐辛子風味、海老の辛味ソース、豚の胃の煮込み、蛸と茸のトマト煮、鶏もも肉のモーレソース、豚ロース肉ウァヒージョ風味、牛もも肉ステーキ、メキシカンライスに茹で卵、色とりどりのタコスが並ぶ景色はおそらく初めての放映であろう。現場では全部美味しそう!と声が上がり大絶賛の収録だった。
若手を紹介するコーナーでも4回目の「未来の巨匠」、そして、今回の賄い担当でも店のスタッフが選ばれた。画面を通じてラ・カシータが持つ美味しさの誘惑を表現できる最大のチャンスに彼も燃えていた。鶏の唐揚げの衣にとうもろこしの粉を混ぜ、ボイルしたじゃが芋との炒めあわせには辛味、香り豊かな乾燥唐辛子をアクセントに加えるなど、着想に富んだ見事な皿を調理してくれた。料理長、セカンド、ホールのみんなも感心しきりの賄いタイムの後、休む間もなく、本命の「ビーフタコス」の収録に移っていく。材料は少し厚めにスライスした牛赤身肉、サルサは強い辛味を持つチレ・アルボルとトマト、ニンニクを焦げるまで焼いて、塩で調味したものを選択した。ディレクターの拘りは半端なものじゃなく、カメラが寄る瞬間にトルティージャや炒め肉から少しでも湯気が少ないと作り直しを命じられ、撮影は12回にも及んだ。朝10時からスタートした収録は12時間後の夜の10時に終了したが、全力でやり切った達成感は心地良く、不思議に疲労感は無かった。放映の翌日は日曜日、開店前から行列が出来、夜まで客足は絶えず、流石の視聴率の高さに感心した。この20年余、メキシコ料理に何度か白羽の矢を立ててくれた制作会社に心からのお礼を言いたい気持ちでいっぱいである。局を代表する番組が終わるのは残念だが、声を大にして申し上げたい。「本当に有り難うございました!」
第97章 店の味、開発計画推進の立役者
飲食に携わる方々の訪問が増えたのは2000年も超えたあたりだろうか、茨城や千葉、埼玉等の関東エリアに留まらず、大阪や愛知、広島からも「メキシコ料理店をやりたいので、色々とお話を伺いたい。」と引きも切らず来訪された覚えがある。たぶん、1990年代後半、「どっちの料理ショー」、「チューボーですよ」、「料理の鉄人」など、全国区で視聴される番組等に出演したおかげで、彼らの目に留まったのだろう。共通していたのは、注文の品を置くたびに、まず、写真を撮ってから皆で探るように食べ始め、前菜、タコス、一品料理を一通り食した頃に身分を明かされて質問が集中したケースが殆どであった。トルティージャやサルサ、一皿一皿の美味しさに感動して貰えた事は嬉しいが、調理の工程を説明するだけでは理解はされても実践できるものではないと了解している。ただ持前の使命感がそうさせるのか、一期一会の相手でも包み隠さず接した。当時は専門書を執筆する前だったので参考書もないままに帰られたが、果たしてその後どう進展したのか、ほぼ連絡は無い。メディアの放映でメキシコの味覚を誘発できた結果は歓迎すべき事例だが、興味本位の表現で献立を提供されては客足も遠のくのだろう。味の秘訣よりも本国の食材が持つ多彩な独創性を駆使する事に気付くべきである。
その男が訪ねて来たのは、2001年の春だった。食事を終えた頃に、「今まで食べたメキシコ料理は何だったのかと思わせる美味しさですね、是非、ゆっくりと今度お話がしたい。」と話しかけられた。頂戴した名刺には、驚いたことに(株)オリエンタルランド、メニュー開発グループの肩書きが記されていた。東京ディズニーランド、食堂本部の責任者である。それから何度か来店が続く中で、ある日「東京ディズニーシーのシェフ以下数人を連れてくるので、レクチャーをして頂きたい。」と依頼された。願ってもない話である。快諾した。当日、体験したことのない美味しさに触れた彼らは、興味深げに料理を見つめ、これを基盤に味を進化させると向上心に燃えていた。これを機にレクチャーを重ね、一度は来日したフロリダディズニーの総料理長までもが視察に訪れた。実現に向けて詳細な打ち合わせが進んでいった。しかし、難問が待ち構えていた。商品のコストパフォーマンスと調理時間である。あれだけの大組織である、数字は絶対的な証として存在し、例外は許されないものだった。残念そうに報告に来た彼は、「渡辺さん、申し訳ない。でも、例えば、航空会社等に提案してこの味を広げたいね。」とまだ後押しを考えてくれていた。彼の名は谷崎賢司、先日、当時フード部長だった同僚の方が来店、2年前に亡くなられていた事実を知らされた。店の味開発計画を推進していただけた出来事に感謝である。
第98章 店のハウスワインはというと・・・
代官山、旧山手通りにオープンした頃、心に強く決めていた思いがあった。当時の世間が持っていた認識、メキシコ料理と言えば「タコス!」。この定説を覆すには来店する客達の期待を裏切り、惑わせ、イメージを混乱させる必要がある。まず、前菜からスープ、一品、デザートまで30種類の献立を構成し、タコスはビーフ、チキン、ポーク、チーズの4種に限定、レストランとしての構えで開業した。B3の大きなポケット式ファイルに10ページ、全品写真を配備したメニューは彼らを驚かせ、興味を引き出し、軽食だけではないという理解が徐々に浸透して行ったのである。食器も本国の物を使いたかったが、土が柔らかくてすぐに欠けてしまうので、栃木の益子に出向き、窯元で黒い皿を焼いてもらった。その際、目にした品々が気に入り、ほとんどを和食器で提供してみた。料理と器のコントラストが意外にも受け、雑誌の取材が引きも切らなかったのを覚えている。調理の味には確信があったが、食べてみたいと思わせる誘惑が不可欠であった。ドリンクは瓶ビールが全盛の時代に、レモンを絞り塩を振り、缶のまま飲むテカテビールを置いていた。この時代ライムはまだ希少、高価で使えるものではなかったのでレモンにしたが、好評を博していた。フルコースで食事を楽しむ顧客達が増えてゆく中で食卓に対するもう一つの思いが芽生えてきた。ビールだけではなく「ワインと共に」である。
修業時代、本国のレストラン、テーブルには常にワインが存在していた。日本ではフランス料理にワインは定番とされていたが、メキシコ料理には想像もつかなった頃である。業者を当たっても残念ながらメキシコから輸入物はなく、試しにポルトガルのポートワインを置いてみたら、幸い顧客の評判も良く、手ごたえを感じていた。しかし、ヨーロッパのものは高価なものが多く、良いワインを探すのに苦慮していた。恵まれたことにその後、カリフォルニアワインが人気となり、リーズナブルな価格で美味しいものを提供できる状況がやって来た。普通にワインを注文する光景が一般的となった頃、願ってもない出会いが待ち受けていた。2002年に秋だった。恵比寿のサッポロビールが主催するメキシコワインの試飲会の招待状が届く。ガーデンプレイスの会場には都内のメキシコ飲食店のメンバー、酒卸しの業者達、150人程がひしめいていた。欧州のワインコンテストで最優秀賞を受賞したシャルドネ(白)とカベルネ(赤)は流石にバランスが良く、一目で気に入り導入を申し出た。その時、担当者から耳打ちされた。「オーナーのディナーを予約したいのですが?」と。光栄なことである、快く引き受けた。担当部長と共に来店したオーナー夫妻は食事が進む中で「全部美味しい!」と上機嫌で、自分も一安心した時であった。いきなり携帯を取り出し、「私だ。日本にすごい店があるぞ。」と本国へ連絡しているのである。部長も驚いていた。今では店のハウスワインとして、定着している。
第99章 彼の名は・・・
「あんた、ようやったなあ。これからも頑張りや。」と中年の男性に声を掛けられたのは、代官山、旧山手通りにオープンして間もない頃だった。いきなりの挨拶に戸惑っていると、その男はこれまでの経緯(いきさつ)を話し始めた。メキシコで代表と勤め知多日本食レストランの大株主が偶然にも私が修業をしていた店(MEZON DEL CABALLO BAYO)のオーナーで、彼から日本人が働いていると聞き、会食の度に調理場の様子を見守っていたと明かされた。店の持ち主の名は、JOSE INES LOREDO、本国でメキシコ料理発展の父と称され、料理協会の会長に食する大富豪の彼が手掛けた事業が、日本の大手と組んだ合弁会社とはその時は知る由もなかった。相手は我が国ではワイン、ウィスキーでその名を全国に轟かせた最大の酒造メーカー。その当時、メキシコシティには5軒くらいの和食店が存在していたが、中でも群を抜いた超高級店だった。因みにタコスが一つ日本円で30円くらいの物価の時代、何と味噌汁一杯が700円の価格、とても庶民が食事できる場所ではなかった。そこで要の役職に就く彼が、一介の若造をまさか気にかけてくれていたとは驚きであり、ましてや、励ましの言葉まで頂戴する事態は、感謝、感謝、雨、あられ、嬉しかったのを覚えている。
それからは、事ある度に会社の部下達を伴い来店を重ね、タコス、一品と召し上がるごとに、店を応援するかの如く、「旨いなぁ、ほんまに旨いなぁ。」と大きな声で絶賛してくれた。関西人特有の気さくさは変わらず、帰国後の部長職から常務取締役に上り詰めるまで人柄はそのままだった。ある時、宇津井健さんがこの会社のコマーシャルに抜擢された折、担当者から宇津井さんが、ラ・カシータの常連と聞かされ、「あんた、流石や!」と嬉々として電話が入ったこともあった。誠に申し訳ない話だが、店はビール、ワイン、酒に関して全て他者の品揃えで営業している。酒類販売の競争事情が激しいこの国の中で、店と顧客との付き合いの常識では考えられない状況だが、有り難いことに何かを超えて応援の環(わ)は、系列企業全般にまで広がっている。バブル崩壊で景気低迷の頃、ふらっと一人で来られ、売り上げがおぼつかない現状を打ち明けると、「大丈夫や、あんたは、自分を信じていればいい。」と温かく助言してくれた。引退なさってからは半年ずつ、スペインと日本の暮らしで悠々自適の生活を送っておられ、在日の際は必ず一度は顔を見せてもらえた。口癖は、「わしはもういつ迎えがきてもやる事は全部やった。あんたはまだ、頑張れる。」である。ここ何年かお逢いしていないが、元気でおられることをお祈りしています。彼の名は「折田一」、我が人生における最大のシンパの一人である。
第100章 人生の分岐点になるアドバイスをくれた人々に感謝を
「東京で勝負してみよう」、その思いを強く感じた手掛かりは、一人の男との出会いから始まった。メキシコ修業から帰国した1976年、初冬、行く末を案じていた父親の紹介で相談に乗ってくれたのは蓮見と名乗る電通の社員だった。後に本社の役員にまで上り詰めるが、当時はまだ30代半ばの好青年、背が高く端正な顔立ちでいかにも聡明な印象だったのを覚えている。場所は東京の羽澤ガーデン、広大な庭を持つ料亭の一室だった。本国で修得した技術や知識を一通り話し、仕事の腕もなく、店を開業する資金も無い、この国で表明する手段を探したいと打ち明けた。彼の答えは明瞭だった。「教えに行けばいいじゃないですか。」目からうろこが落ちた。そんな大層なことは考えてもみなかった。地元の関西では先輩や友人も多く、人間関係の距離が近い分、道を開拓するやり辛さに悩んでいたが、誰も知らない東京なら強気になれる。そんな思いが心に広がり、一筋の光明が灯された瞬間だった。だが、西も東も解らない大都会で本当にやっていけるのか、一抹の不安もあったのは確かである。この頃の時代背景は関東、関西はお互いに分離されたような状況で、言葉や食べ物だけでなく、習慣や価値観、美意識も違っていた。自身の背中を押したのは渡墨する前のリサーチで体験した六本木の店が切っ掛けだった。
意外に繁盛していたその店のトルティージャは卵に小麦粉を混ぜて焼いたクレープそのものだったのを思い出したのである。メニューも肉や海老にチリ・パウダーをかけて調理した皿だった。世界の玄関口なら恥ずかしくない料理を提供するべきと勝手な理由を付けて対戦相手に想定し、闘争心に火を付けた記憶がある。頼れる男がたった一人いた。メキシコ大使館の商務参事官、Sr.アニーバル上原。日本に帰ってきたら連絡がほしいと云われていた。報告も兼ねて永田町に出向き、「どこか調理を教えられる店はないですか?」と持ちかけてみた。そこからの流れは以前にも触れたとおり、赤坂「Ambe」の仕事を斡旋してくれたおかげで生活も安定し、東京での暮らしがスタートした。「Ambe」ではオーセンティックな献立はあまり評価されなかったが、店を閉めた後、オーナーが六本木の各人気店で美味しいものを奢ってくれるのが常だった。刺激を受けた1970年代半ばの移り行く街は為になる体験として残っている。振り返るとあの一言が無かったら、神戸で燻り続けていたかもしれない。蓮見はまるで後輩の面倒を見るかの如く、渋谷公園通りにオープンしてから現在まで、来店しては料理に舌鼓を打ちながら、「元気でやってますか?」と優しい目で話しかけてくれる。退職してからは大学教授となり、会社で培った知識を講義して次世代の育成に努めている。因みに文中で触れた六本木の店はいつのまにか閉店していた。人生の分岐点になるアドバイスに感謝である。
第101章 メキシコのカップラーメン、味のレクチャー
ラ・カシータを開業して40年余、お客さまから数々の質問を受けてきた中で、素朴な疑問のひとつ「メキシコに?料理は無いの?」がある。全く無い訳ではないが、我が国のうどん、蕎麦、ラーメンほど大衆に普及しているものではない。代表的な献立を上げれば、「SOPA・DE・FIDEO」だろうか。トマト味のチキンスープにラードで揚げた細麺がたっぷり入ったそれは、全国のレストラン、定食屋で提供している有名な一品であるが、専門店は存在していない。考えてみるとイタリア料理がこれほど一般的になった切っ掛けはスパゲッティ(現在はパスタ)が発端で、麺好きの日本人の心を捉えた上で、本格的な食事体系に導いていったのだろう。仮にメキシコに多種の麺料理があったとしたら、もっと興味をひいて調理人が増えていたかもしれない。残念ながらそれは現実的でないが、面白いことに本国では「マルちゃんのカップラーメン」がここ十数年大ヒットしている。これは前述した細麺のスープと酷似した商品が、彼等の購買欲を駆り立てた結果だろう。ラベルにはスープとしての表示が記され、定番のチキン味、海老味、チーズ味、ローストビーフ味等、10種類くらい売られている。食べる際にはライムを絞りサルサ・チレをかけるのがメキシコ式。最近ではカップヌードルで有名なメーカーも参戦、HABANERO(アバネロ)のサルサバックを付けるなどして競争力を高めている。
味の素の海外食品部が訪ねて来たのは本国で「マルちゃん」が爆発的に売れ始めた頃だった。当社がメキシコで販売する商品の調味についてのレクチャーをお願いしたいとの依頼である。常連客だった部長の指示なのか、まるで藁にもすがるように頼まれては、自身の知識の限り講話を努めようと受諾した。後日、午後の時間に来店した8人のプロジェクトチームはスーツに身を包み、まるで会社の会議のように緊張していた。柔らかい話から始めようと思った。子どもの頃、味の素は常に食卓に常備され、おかずだけでなくご飯にもかけて食べた。頭が良くなるからと云われたからもあるが美味しさを感じていた。後に知ることになるが、日本人に根付いている好み、昆布の旨味が持つグルタミン酸ナトリウムが主成分の粉末だった。本題に話を進めた。メキシコ人が旨味を感じる食生活の基盤は鶏の出汁にある。先住民が長年の間培った食文化を支える地鶏の生産地は、その旨さで知られるトラルパン地方を代表として全国に点在している。クノールやマルちゃんが成功したのは正にその根に適合したからだと解釈できる。昆布の旨味を前面に出しても彼等は私たちのように美味しさを理解しない。方向性が見えたのか、ノートをとる手を置き、日常の中での食材、調理法の質問が矢継ぎ早に飛んできた。2時間に及んだ講話が終了した直後、全員から握手を求められた。一年後、明るい顔で帰国した専任課長から大きなトナラ焼きの陶器をプレゼントされ、あれから順調に進んでいると報告を受けた。
第102章 日本人の食に対する繊細さをメキシコ料理に
近年、研究者によるとメキシコ中央高原にトウモロコシや唐辛子が突如出現したのは、約一万年くらい前とされている。思いがけない神からの贈り物はしばらくの間、野生のままその姿を保ち続けていた。紀元前7000年頃から集落における農業が始まり、共同生活を営む中でそれらを巧妙に活用した食文化が生まれたのは必然の結果なのかもしれない。メキシコ料理がユネスコ世界無形文化遺産に選ばれたのは、その歴史の深さもあるが、トマト、ウチワサボテン、かぼちゃの花、エバソテ(アリタソウ)、豆等を絡めたその独創性に富んだ調理法に拠るものが大きいだろう。数千年に渡り、日本の5倍以上ある国土に培われた、数えきれない程の味覚の彩りは興味が尽きることなく、これからも精進して表現して行きたいと考えている。ラ・カシータを創設した頃、頭を悩ませたのは日本人の食に対する繊細さであった。見た目の盛り付け、香り、色合い、触感、喉越し、そして、調理の際の材料を切る大きさ、熱の入れ加減等、課題は山積みであった。本国の美意識ではあまりにダイナミック過ぎてそのままの提供は難しいと感じていた。毎夜、修業時代のノートを開きレシピを逸脱せず、食材のボリュームを減らし、加熱した肉や海老にかけるサルサの分量、皿の上での並べ具合、レモン、パセリを添えた彩色豊かな品々を考案、日本のロケーションに似合う姿はそのおいしさを充分予感させた。
当時、メキシコ料理のイメージは、激辛のジャンクフード。意外にも口に入れた一つ一つの皿が醸し出す優しい味わい深さは来店客を喜ばせ、徐々にリピーターは増え、ファン層は広がっていった。現在でも、ワカモーレ、ケサディージャ、海老のにんにく炒め等、テーブルに置いた瞬間に「わーっ、美味しそう!」の声が毎回上がる。シンプルにおいしさを提供することが店の使命だと継続してもう40年余になるが、どの顧客達もそれぞれの好み料理があり、40年近く飽きずにいつも注文が来る。「たまにチャレンジャーになったら?」と声をかけても、いやこれとこれが食べたいからと全く動じない。考えてみれば冥利に尽きるのだが、感心するくらいの執着ぶりである。ここ数年二人の顧客からお願いされている事柄がある。縁起でもないが「もしもの時、最後の晩餐をここの料理で」の切望には関心を通り越して驚くばかり。メキシカンライスは共通しているが、一人は海老のメキシカンソース、もう一人は海老のにんにく炒めである。二人とも、一回り以上年下なので、最初は冗談だと思ったが、来店のたびに本気だと言い張っている。学生時代から通ってくれる一人は今や大手の広告代理店の支店長まで出世したが、激務らしく「絶対に、自分が先に逝く」と家族の前でも宣言審、先日、奥様、ご子息を含めて約束させられた。一度しかない人生、動ける限り何があっても調理に行くつもりである。
第103章 女子高文化祭、メキシコ料理、人生・・・
都立芦花高校、家庭科を担任するお二人が訪ねて来られたのは2016年、初夏の頃だった。今年の文化祭でタコスをやりたいのでお話しを伺いたいとの用件、切っ掛けは生徒が書店で私の専門書を読み、どうしてもと先生に要望したらしい。まずは召し上がっていただこうと種類を選び、食される中で、トルティージャの在り方、サルサに使われる唐辛子の持味等を説いていた時だった。いきなり、「どうしてメキシコ料理だったんですか?」と質問が来た。大抵聞かれる事なので、学生時代のアルバイトで料理に気付き、調理の世界へ入ったが、紆余曲折がありメキシコに関心を抱いた由、その頃メキシコ料理の調理人はおらず、本国へ渡るしか術はなかったことなどを話していると、突然、一筋の涙が片方の彼女の目から零れ落ちた。驚いたのは、「20代半ば、プランもビジョンもなく、ただ、衝動に身を任せて前に進む姿に感銘を受けました。是非、文化祭担当の生徒にその話しを聞かせたい。」と個人授業を依頼されたことである。女子高校生相手に少々照れくさいが、自分の話が人の役に立つならと承諾した。後日、午後にやって来た生徒二人に、先生同席の元、私が高校生の頃の出来事から講話を始めた。50年以上昔の常識である。帰宅したら外出は必ず学生服、長い髪やギターを弾くのは不良扱い、喫茶店に出入りしたら補導等、現在では笑い話にも当てはまらない非常識。だから、今の校則や、先生や親の価値観は20年もしたら覆るから、抵抗するのではなく、自分の信念の秤を見つけなさいと。
与えられた命の自己に向き合いながら、気骨を持って人生を過ごさないと勿体ないと助言を送っていた。調理に携わる際の食材の扱い方、タコスやサルサの解釈等、気が付けば、2時間を過ぎていた。興味深く聞いてくれた二人から、一週間後、感謝の手紙が送られて来た。指導する教員として、やり甲斐を感じたのか、今度は先生が私の料理教室に通うこととなる。生地の練り方、伸ばし、焼きなど練習が必要なので、他の生徒には申し訳なかったが、事情を話して集中的に講義した。本番を控えやる気は半端でなく、マキナ(伸ばし機)も手作りしたう上で、毎週のように店でマサ(とうもろこし粉)を購入しては、全員一丸となって学内で励んでいた。ご招待を頂いたが、当日は週末で出席できず、頂戴した写真を拝見すると、中々のものでほぼ完ぺきに再現されていた。気恥ずかしかったのは、講話の時の内容が「渡辺先生の生き方」と称して大きくパネル展示されていた場所の写真。あの時、先生が熱心にメモを取っていたのはこのためかと赤面の思いである。欠席が正解だったのかも?・・・何れにしてもここまで熱心に学祭に打ち込んでくれたのは十数年ぶりのこと。最初の訪問の時、現場の盛り上がりも大事だが、祭事を通じて結束力と達成した充実感の中に生まれる意義を生徒の人生に持たせないと意味がないと偉そうに先生方に求めたが、真摯に受け止めて頂き、上々の結果に心から感謝である。
第104章 メキシコ大使館からあるイベント参加の依頼を受けて
メキシコの面積は日本の5.2倍、この広大な国土に数千年に亘って培われた食文化は計り知れないものがある。各地方に根付いている郷土色溢れる料理の品々は、その独創性を見事に披露している。修業時代から国内を巡り、目の当たりにした現実の奥深さは、畏怖の念を持って臨まなければと己自身を奮い立たせたのを記憶している。屋台や定食屋、レストラン等で食事を通じて体験するのは勿論の事だが、メルカード(市場)で先住民の末裔の方々からもお話を聞いていた。唯、食材や料理の名称がスペイン語の辞書では役に立たず、仕方なくカタカナで記録していたが、後にプレ・イスパニカ(スペイン文化到達以前)の言語であるナワトル語の辞書を見つけてからは面白いように語源が解り、事ある度に夢中になって訳していた。その分厚い本には古代の情報が膨大に詰まっていて、現在も検証を取るには欠かせない辞典である。長い歴史の中に継承されてきた食の歩みを如何に日本人に認識させるか試行錯誤していた初期の頃、忘れられない出来事があった。それは代官山、旧山手通りに開店して半年ほど経った夏の事である。メキシコ大使館からの電話は、あるイベント参加への依頼を告げていた。品川に開設される大手ホテルのオープン記念企画、「世界の民族料理」、期間は1週間の限定だった。願ってもないチャンスである。当時店はまだそんなに忙しくなく、スタッフの調整をし、出向いた。
豪華ホテルの1階ロビーに配置された十数軒の屋台は、国名が記されただけのあまり立派なものではなかったが、一流の場所で提供できる状況に心は弾んでいた。インド、韓国、タイ、ベトナム等、エスニック満載の雰囲気はこの祭事の盛り上がりを予感させていた。一坪ほどのブースではそんなに販売できないが、それでも海老や鳥肉の献立を用意した。奥の厨房で準備をしていると「メキシコ料理って珍しいですね、タコスは知っていますけど。」とインド人の女性が話しかけてきた。本国の料理の豊富さを説いていると、彼女は「私の悔いもカレーだけだと思われているが、いろいろ沢山あるんですよ、この場所でそれを説明したい。」と共感してくれた。会話が聞こえたのか、韓国や他の国の参加者も口々に同調していた。日本人の認識を改めるのは時間もかかるが大変なことなんだと意見が合い、「皆で頑張りましょう!」と一気に纏まった。初日から好評を博したのは、若鶏もも肉のメキシカンソースだった。トマトを主体にしたソースにボイルしたじゃが芋のサイコロ、グリーンピースの緑が国旗の色を表した定番の一品である。ほのかに感じる唐辛子の刺激は購入者達に意外性を与え、そこから話は膨らんでいった。野蛮な辛さだけだとイメージされていたが、上流客に美味しい旨味があると伝えられたのは、このイベントのおかげ、本当に有意義な1週間だった。噂が口コミで流れたのか、店の予約は増えていった。
第105章 マリキータ、運命の出会い
マリキータに最初に出会ったのはまだ神戸で調理をしている頃だった。神戸でLIVEがある度に店を訪れた彼女の本名は「帆足まり子」、ラジオ番組のDJを務め、日本に中南米音楽を紹介したパイオニアである。1950年代後半、単身メキシコに渡り、現地でバンドを組み一躍人気者になった実績を持つラテン界の第一人者は、驕ることなくいつも優しく接してくれた。一回りほど年上だったが、年の差を感じさせない気さくさは、まるで身内の姉のような存在感を示していた。ある時、相談を持ち掛けてみた。調理に悩み、本国に行くしかないと思い詰めていた私に、「絶対、行くべきでしょう!」と背中を押してくれた言葉には今も感謝の念に堪えない。メキシコに住んで半年経った頃、偶然の出来事が待ち受けていた。買い物を終え、インスルヘンテス大通りを歩いていた時だった。何と彼女と鉢合わせしたのである。「やっぱり来てたんだ!」満面の笑みで喜んだ後、近くの高級ステーキ店で食事をご馳走になった。仕事の近況を報告すると、嬉しそうに頷き、料理の神髄を極めろと励まされた。この日の事は今でも印象深く心に残っている。さらに運命は加速を促していく。それは渋谷公園通りに店を構えて数か月経った頃だった。すぐ側のNHKの教育TV「スペイン語講座」から出演依頼が来た。
メキシコのお話をしてほしいと連絡があり、打ち合わせに出向くと、早稲田の西語教授である寿里先生と並んでマリキータがいた。ラ・カシータを開設した情報は彼女の耳に入っており、是非にと推薦があったらしい。本国では誕生会やX‘masには大きな紙製の人形にお菓子をいっぱい詰めて天井からつるし、目隠しをした子供達が棒で叩き壊すのを競う風習がある。そのゲームをメインに歌と日常の様子を紹介する内容で進行は決まった。嬉しかったのは、その後、収録日の打ち上げは出演者全員、店で盛り上がる状況が生まれたこと。皆、料理に舌鼓を打ちながらメキシコ話に花が咲き、夜は更けていった。代官山、旧山の手通りに移転してから、新しい企画が持ち上がった。定休日を利用して店で彼女のLIVEをほぼ隔月で行うもので、食事は提供せず、ドリンクだけを用意する。貸し切り料は無しにして、飲み物の売り上げをいただくことで纏まった。歌声が聞けるだけでも有り難いのに、ファン達が顧客となり、集客に結びついていった流れは店の繁栄を保証していた。毎月、店を訪れては賑わう店内を見渡して、まるで我が事のように喜び、「頑張りなさいね!」と肩に手を添えてくれたのも一度や二度ではない。ラテン音楽の開拓者にとって、日本では未知なる領域のメキシコ料理に邁進する私を見て、どこか似ている部分を感じていたのかもしれない。恵まれた出会いは更に進展するが、次回で。
第106章 人脈を広げさせてくれた4人の女傑達に
メキシコの魅力を提供する催し、「Fiesta Mexicana」がスタートしたのは、1999年9月のことだった。場所はお台場ウェストプロムナード、太陽広場では民族ダンスやマリアッチ、ムシカ・ランチェラ、ロマンティコなどのメキシコを象徴する歌が披露され、市場通りには民芸品や衣装、雑貨の店が軒を連ね、在日メキシコ人会や既存のメキシコ料理店がタコス等、軽食の屋台を並べる盛大なイベントである。主催の実行委員会には歌手のマリキータ(帆足まり子)、織家律子(Cafe´ y Arte)、石井あけみ(メキシコ観光代表)、畠野さん(タコス デル アミーゴ オーナー)の4人の女傑が揃っていた。実力者の彼女たちはメキシコ大使館の後援を得て、メキシコ外務省、農水省−SAGARPA、観光局、商務部を動かし、この企画をこれまでにない充実した行事に膨らませたのは流石である。ただ、調理に関してはやはりTEX-MEXが幅をきかせているのが現状だった。唯一、メキシコ人達の店のサルサやタコスの具材の美味しさが際立っていたが、たった一軒では伝わるものも伝わらない。すぐ側のホテル、グランパシフィックの料飲部から連絡が入ったのは次の年の初夏の頃だった。前年の集客力を目の当たりにして、ホテル内でもメキシカンを出したいので実行委員会に相談したところ、「レクチャーを受けるなら代官山ラ・カシータが一番」と言われましたとの事。
勉強会が始まった。まずは一般の調理師達が認識しているスパイスを多用したメキシカンが米国のものである話から始め、本国における食の実体、歴史、地域性に等、店の献立を食してもらいながら説いていた。数品、レストランのメニューに加えたい要望だったので、アラカルトを選び、トルティージャは実践がないと無理なので外すことにした。後に取締役、総料理長まで出世した当時の料飲課長(矢部喜美夫)をリーダーとする部下10人に教えたのは、唐辛子の使い分けである。簡単なレシピで調理できるサルサ2種類を使って、塩で調味した白身魚や鶏肉(ささみ)に添える皿と、単品で個性を発揮するチレ・パスィージャを海老と茸に絡めたオイルソースのパスタを伝授した。開催期間中、品々の評価は上々だったらしく、後日、現場に出向くと厨房全員から歓喜の声で迎えられた。探求心が芽生えたのか、それから2年間、夏前になると彼等へのレクチャーは回を重ね、親交は深まっていった。メキシコに育まれた唐辛子類の持味には、新たな創作料理への可能性が満ち溢れている。奇をてらうことなく食材の個性を見抜いて挑戦することで美味しい一品が生まれてくると信じている。私をホテルに推薦してくれた女傑達も現在は石井さんを除いて3人が旅立ってしまった。ご冥福をお祈りするとともに合掌!
第107章 世界初の「食の文化話題辞典」
1978年2月末、代官山旧山手通りにオープンした翌年、左隣にハリウッド・ランチマーケットが開設された。これまでのファッションの常識を覆す古着のお洒落は、若者達の絶大な支持を得て、ファンは急増し、ビンテージの品を求めて連日賑わいを見せていた。その品々は正に戦後の憧れであったアメリカの歴史の裏打ちされた本物の価値観を知らしめていた。ボスの源さんが店に共感してくれたのは、本国の食文化を真摯に伝えようとする私の姿勢だった。幾千年もの時を経て育まれた先住民の独創性溢れる食の歩みは、現在も受け継がれているが、当時は誰も知るところではなかった。メキシコの食材や調理法に関する認識を全く誤って記述している著書が多く、取材に訪れるライター達を叱りつける私の姿を何度となく見かけた・・・と後に源さんは語ってくれた。自分自身に記憶は殆どないが、この頃の「東京うまいもの屋」や「東京食べ歩き」等、飲食ガイドを読み返してみると、熱心に、強い口調で、憤慨などの言葉が織り込まれているから、きっとそうだったのだろう。恵まれたことに年間100近くもあった週刊誌、月刊誌、新聞、単行本、ラジオ、TV等の来訪の度、ここぞチャンスとばかりに捉えて対応していたのだと思う。嬉しい企画が舞い込んだのは、1993年の春だった。
「今度、世界を網羅した食の辞典を作りたいの、原稿、お願い!詳細は会ってからね。」と、いつもの調子で連絡をしてきた電話の主は杉野ヒロコ氏、業界の名だたる料理ディレクターであり、ラ・カシータの創設期からいち早く味の名店として取り上げてくれたグルメリポーターでもある。2年かけてフランス各地の一流レストランを取材、その敏腕さと文の構成力には定評があり、大ホテルの総料理長、日本食の板長、フレンチ、中華、イタリア、エスニック等、著名なスーパーシェフ達が彼女には絶大な信頼を置いていたので、執筆者の名簿にはすごい方々が名を連ねていた。メディアがこぞって料理番組制作や特集記事に乗り出す時代より4年も前の話である。敏感に未来を読み切った彼女の行動力の枠に加えてもらえた事実は光栄の至りだった。使命感が頭を持ち上げてきた、現行の字数は一章1800字×10、食材や伝統料理の歴史的背景、国民食の体系的区分け、郷土料理における地域色、海鮮、淡水魚の妙味、料理の比較分類、主食の来歴など、書きたい主題は山ほどあった。原書から検証を取らなければならない部分が多々あり、時間を必要としたが4か月かけて書き終えた。後日、手渡した原稿はかなり満足のゆく物だったようで、満面の笑みで握手を求められた。「食の文化話題辞典」とタイトルが付き、秋に刊行された500ページに及ぶ分厚い辞典は、おそらく世界初である。
第108章 グルメブームに光栄な出来事
それまでフランス料理一辺倒だった洋食の領域に頭角を現し、瞬く間に料理界を席巻したイタリアンの台頭によって、1990年代は空前のグルメブームが全国を駆け抜けていた。TV各局は挙って番組を編成 し、各出版社は既存の雑誌の特集だけに留まらず、新たに専門誌を刊行する社が増えていった。「dancyu」や「料理天国」等、大御所の料理書籍社のお株を奪うようなユニークな取材力と編集は、飲食に携わる関係者はもちろんのこと、世間一般の多くの人々の興味をひいていた。ラ・カシータも御多分に漏れず取材が相次ぎ、毎月のようにその紙面を賑わしていた。そんな折、一本の電話があり、デパート出店の依頼が舞い込んだ。場所は池袋の東武百貨店催し会場。条件は現場でのイートインとテイクアウト、10種類以上の代表料理だった。果たして持ち帰りで未知の味が顧客に通用するのか一抹の不安があり躊躇していると、後日お伺いしますと電話は切れた。試食に訪れたフードコーディネーター達は店の味に太鼓判を押し、是非にと推されると悪い気はしなかった。決断のきっかけはイタリアンとメキシカンの2本立てで考えていますと聞かされた時だった。相手は巨匠の日高さん、現在でも有名大シェフだが、当時絶頂の方である。比較啓蒙の絶好の機会であった。メニューの絞り込みに着手する中、冷めても味や食感が劣化しないものと簡単に温められる献立を選んだ。
当日、池袋駅には二人の顔写真入りの大きなポスターがあちこちに掲げられていて少々照れくさかったが、名誉なことだと心して会場入りした。朝8時の朝礼に始まり10時の開店までの準備に期待は膨らんだ。タコス類はイートインのみに限定して、低温にしたガラス張りのケースの中には若鶏のモーレソースとアンチェラソース、豚ロース肉の田舎風、ソーセージ入りのメキシカンスクランブルエッグ(ハラペーニョ風味)、メキシカンライス等を並べてみた。現場は大多数を占める奥様族を中心に数百人単位の人々がのべつ幕なし訪れてくる。初めて目にする品々に質問の嵐である。「どんな味?カレーみたいなの?」丁寧に説明すると興味が沸いたのか、購入される方々が段々増えていった。焼きたてのトルティージャに熱々の具材を置き、フレッシュなサルサで食するタコスには感嘆の声が上がっていた。こちらは若者が多かった、年配者には手掴みで食べることに抵抗があったのかもしれない。夜、8時の終了までの初日に掴んだ手応えはそれから1週間上昇気流に乗り、無事、楽日を迎えた。バブル崩壊の影響で店がそこまで忙しくなかった状況も幸いして、イベントに専念できたことが好結果に繋がった。同業の情報網は耳ざとく、評判をリサーチしたのか、その3か月後、新宿燗屋から出店のお誘いがあり、今度はタコスだけを売った。最後は銀座三越からの依頼だった。昨今流行りのデパ地下での販売は非常に有意義な体験だった。1996年1年間の光栄な出来事である。
第109章 節さんに心からの感謝を
2018年1月末、悲しい知らせが届いた。萩原節さんが24日に亡くなったとの訃報である。思い返せば私の東京での第一歩(1976年1月)は彼の店「ambe」の厨房から始まった。就職を斡旋してくれたメキシコ大使館商務部(当時)のAnibal上原氏とのつながりが無ければ、我が人生は違ったものになっていただろう。二人はメキシコ留学時代からの友人だった。面接当日、私の緊張をほぐすように、にこやかな表情で「期待しているよ、頼むよ!」と肩を軽く叩いてくれたのを今でも覚えている。大使館と目と鼻の先で節さんが営む店は、毎夜、生演奏で本国の曲を聴かせるクラブ形式のライブハウスで、店内は各界の著名人で賑わっていた。それまでのメニューを一新しようと考えていたが、店の運営上オーセンティックなメキシコ料の理一本に絞るわけにもゆかず、定番のホタテの和風サラダや烏賊のホイル焼き、お新香等を引き継ぎながらタコスやエンチラーダを組み入れてスタートした。中南米の音楽に身をゆだね、酒を酌み交わす中での顧客たちの注文は慣れ親しんだ以前の物ばかりで新献立は見向きもされなかった。昭和の時代、音楽に関しては、トリオ・ロス・パンチョスのおかげで期待感は高まっていたが、料理には全く興味を示されず、コーラスやソロの曲の調べに酔いしれていた。
救われたのは、節さんを含むバンドのメンバーが中南米音楽を忠実に再現しようと試みていた姿勢だった。表現者として私のメキシコ料理に対する一途な思いを理解し、同志と認めてくれた状況が生まれていた。調理場に籠る私に彼らは「いつか判るよ、頑張れ。」と優しく声をかけてくれた。初期リーダーでロス・インディオスを結成したが、事務所の方針がラテンムード歌謡に移行して行く中、グループを他の仲間に託して自己表現の場所を求めた節さん、きっと心のどこかで私の遠い未来を応援してくれていたはずである。たった半年の勤めで義理を欠いたが、渋谷、公園通りにラ・カシータを開業してからも、早朝野球に誘ってくれたり、イベントで会うと、満面の笑みで「ようせい!頑張ってるか。」とハグされた思い出が深く心に残っている。本国で牛ハラミステーキが流行った時も、作り方を教えてほしいと連絡があったり、教室にスタッフが顔を見せた時もあった。身体の調子が良くないと噂には聞いていたので気にはしていた。そういえば「ambe」にいた時、常連客のビストロ開店祝いで、わざわざ静岡まで連れて行ってくれた。全て美味しくいただいた料理の感想リポートを帰りの新幹線で依頼され、提出したら「上出来だ!」と褒めてもらった記憶がある。きっと調理人としての資質を計られていたのかもしれない。私の生き方を見守ってくれた節さんには心からの感謝しかない、合掌!
第110章 初の独立をした教え子
1976年、夏、渋谷公園通りにラ・カシータを創設以来、およそ数百人に及ぶ教え子たちを指導してきた。中でも印象深く残っている男が一人いる。その名は青木直行、当時、TV番組制作会社のADを務めていた。確か、1980年の初夏の頃だった。出演依頼を受けた「素晴らしい味の世界」は、テレビ東京が高視聴率を誇る料理店憧れの番組だった。一流の店の献立を5〜7回に分けて一品ずつ調理工程と出来映えを紹介し、その美味しさと奥義を伝える質の高い内容で構成されていた。まな板の上で鮮やかに食材を切り分ける様や熱したフライパンに肉を置く瞬間の音を集音マイクが最大限に拾い、手元や材料をカメラがアップで撮って行く。無音で真っ暗スタジオではスポットライトの明かりが対象を照らし、調理作業の音だけが響いていた。7回分、約12時間を費やした収録を終え、心地よい充足感に浸りながら帰り支度をしている時だった。青木さんから「すごい感動しました、全部美味しそう!」と感想を頂いた。その時は気付かなかったが相手の気持ちの中に変化が生まれていたのである。後日、料理名とナレーション説明の確認に店に訪れた彼の口から意外な言葉を聞かされる。「僕、この店で仕事したいんです、お願いします・・・。」驚いた、あまりにも突然の出来事にしばし呆然である。
聞けば、これまで、数々の料理人の方々の料理と技術を見てきたが、メキシコが披露する独創性、シンプルなレシピが醸し出す味の妙味、歴史的背景が映し出す奥深さ、そして何よりもラ・カシータのスタッフたちの熱意と開拓精神に魅入られてしまったとのこと。是非、仲間に入れてくださいと頭を下げられては断る理由はなかった。包丁を手にした経験はなかったが、持ち前の器用さで上達も早く、2年も過ぎた頃には仕込みもできるようになっていた。性格も明るく冗談も好き、前向きで好奇心旺盛な青木さんは、正に店にお似合いの存在だった。1987年夏、地上げ屋来襲の折、ラ・カシータが閉店、解散を余儀なくされたのを機にメキシコへ旅立ち、半年間、各地を巡り見分を広めていた。帰国後、かつて大阪万博が行われた会場の近く、千里中央に「EL PICANTE」の名で店を構えたが、残念ながら3年ほどで閉じてしまった。教え子、初の独立だったが、関西はアメリカンメキシコ料理への依存度が強く、中々、殻を破るのは難しかったに違いない。現在は定職に就き、東京に出張があると顔を見せてくれ、相変わらずの人柄で昔話に花が咲く。因みに、グアテマラで出会って結婚した彼の奥様は、私の学生時代から語学友人(シアトルのワシントン大学、東洋美術史教授)MICHIYOさんの妹である。人生の歩みの中での縁に贈られたシナリオは不思議であり、感慨深いものがある。
第111章 体感した味覚の感動は時を超える
代官山、旧山手通りに店を構えた1978年の初夏の頃だった。後にその名を知らしめて行く芸能事務所が真上の2階にひっそりと開業していた。初めはモデル中心の営業だったが、80年代に入ってからはアイドルを主体に売り込みを図っていた。主な所属タレントは竹の子族で名を馳せた沖田浩之、「笑っていいとも」のオープニングを熱唱する、いいとも青年隊、10代の美少女歌手、三田寛子等、個性と魅力を兼ね備えた彼らが身近にいた。有り難かったのは、取材の席にテラスや店内での撮影が行われ、写真ページの片隅にラ・カシータの文字を明記してくれた社が多数あったことと、番組で共演する著名な方々に「事務所の下にすごく美味しいメキシコ料理屋がある。」と吹聴してくれた事実だった。携帯もネット検索もない時代、雑誌や口コミの影響力は多大なものがあり、毎日のように芸能関係の人々が訪れる状況が生まれていた。当時、よく来店されたタモリさんの出で立ちが印象深く記憶に残っている。ざんばら髪に太い黒縁の普通の眼鏡、地味な上着の装いで、まず一般人には見破れない見事な変装ぶりだった。この時代、代官山は恵比寿、渋谷、中目黒辺りの雑踏から隔離されたようなロケーションで人通りも少なく、時間もゆったりと流れていた。手造りの木のテーブルやイスが並ぶオープン・エアのテラスで飲んだテカテビールが最高だったと常連の顧客達から今でも聞かされる。
BS朝日1の番組、「極上空間」のディレクターから連絡があったのは2016年の年が明けた頃だった。出演者が思い出の地を巡る内容で、今回は野々村真と三田寛子の二人が訪ねる先の一つにラ・カシータを希望しているが、撮影は可能ですか?との問い合わせだった。勿論、断る理由は無かった。しかし、35年ぶりである。しばらくあの頃を回想している自分がいた。寛子ちゃんは京都からお母さんが状況してくると、店で食事をしながら早口で淀みなく近況を話していたシーンが蘇ってきた。「ギンギラギンにさりげなく」でヒットした真君の同級生がタコスを食べる光景も浮かんでいた。当日、「お久しぶりで〜す!」と駆け込んできた二人は、「渡辺さん全然変わらない!」と大声ではしゃぐ姿は、もう完全に10代に戻っていた。メークの間、思い出話とその後の報告で盛り上がる中、考えてみれば両人、才能に長けているからこそのここまでの活躍ぶりだと、改めて感心した。大好きだったワカモーレとビーフタコスを頬張りながら「美味しい!これよこれ!」と無邪気に喜ぶ様に、ディレクターからロケ終了後、「おかげ様でいい絵が撮れました。」と感謝された。体感した味覚の感動は時を超えるもの、二人とももう50才だと話していたが、このときだけは純真浮くな15才だった。
第112章 憧れの本物のメキシコ国旗から始まった。。。
メキシコ政府関係者の方々にはオープン当初からこれまで随分お世話になって来た。1976年、渋谷公園通りの店の開店準備に奔走している頃、どうしても手にしたかった物があった。本物の国旗である。当時、各国料理店の殆どが店の前に掲げているのを目にして憧れがあった。入手の手段もわからないままに、図々しくも領事館を訪ねてお願いをしている自分がいた。開拓精神あふれる気概が通じたのか、担当者の方が「売却も譲ることもできないが、貸与なら」と対応してくれた。一枚の書類に署名をして手に入れた大きな国旗、しばらく店頭で風に吹かれていたが、今は我が部屋の片隅で静かに眠っている。あれから40余年、ご厚意の貸与期間はまだ続いている。商務参事官や文化担当官のご家族もよく食事に訪れていた。前菜や軽食も好評を得ていたが、とりわけ気に入っていただけたのは、海老の献立だった。近頃はアジアの物ばかりが市場に出回るが、恵まれたことに、この時代の輸入海老はメキシコからの海老が大半を占めていた。甘味があり、噛みごたえのある食感と旨味は本国独特の特徴で、ニンニクオイルで調理したものや、優しいトマト味のランチェラソースで絡めた皿がお気に入りだった。この頃の大使館には専属の料理人がいなかったため、大使夫妻の食事や、家族親睦パーティのケータリングによく出向いていた。おかげで各種唐辛子の類や香菜の種子等を分けてもらえた。
現在はメキシコ食材の輸入業者も増え、安定して質の良いものが購入できる世の中になったが、1980年代は中々難しくしていた。唯、基本に忠実に美味しさを提供できた状況が信頼に繋がり、官僚達の評価は徐々に広まっていった。2010年の秋の事だった。外務省からの連絡があり、今度、メキシコの日本大使館に赴任する大使の送別会をやりたいとの申し入れだった。当日、職員14名が待ち受ける中、現れた小野特命全権大使が席に着くと一同は張り詰めた空気に包まれていた。挨拶が終わり、食事が始まる。少し緊張が漂う雰囲気は、私にとって苦手なものだった。前菜盛り合わせ、ケサディージャ、牛肉のタコス、海老のにんにく炒めまで進んだとき、突然、大使が大きな声で「美味しいね!」と言いながら、笑顔でみんなを見回した。この一言で場は和み、忽ち話に花が咲いた。小野さんは料理に興味を持たれたのか、席に呼ばれ、本国の食文化について話を聞きたいと要望があったのでレクチャーしている時だった。職員から「大使に渡辺さんの著書をプレゼントします、サインも入れてください。」と声が上がった。光栄なことだと胸に感じながら名前を入れ、宴の時は過ぎていった。それから、4年後、来店された小野さんは「省に帰ってきました、あの本、向こうでかなり役立ちましたよ、お礼を言いたくて。」と話してくれた。照れくさいが褒めてもらえたのは嬉しい限りである。
第113章 編集者の和泉ちゃんと糸川英夫博士
数々の企業の社内報編集に携わっていた女史、通称「和泉ちゃん」と知り合ったのは東京に居を構えた1976年の春のことだった。当時から夏のメキシコ料理の啓蒙に情熱を燃やしていた私に興味を抱いたのか、仕事関係者と頻繁に店を訪れ、「これが本当のメキシコ料理、全部美味しいんだから。」と皆に吹聴してくれた。来店の都度、同業者達には好評で、彼女はいつも終始ご満悦だった。ある日のこと、「これだけ美味しい料理ができるのなら、お願いがある。」と切り出された。依頼は、某化粧品会社の機関紙に「今月の一品」と題して、簡単に家庭でできる献立を考案してほしいとの内容だった。果たして創作メニューへの引き出しが自身にどれだけあるのかの挑戦だったが、調理人冥利に尽きると思い、引き受けた。スタートが1月からだったので、「洋風お雑煮」と称して、チキンコンソメで鳥肉とほうれん草を加熱し、そこにサラダ油で素揚げにしたお餅を入れるレシピを提出した。彼女は、「こういうのが欲しかったのよ!」と絶賛だった。春はボイルしたアスパラとロースハムを具材にした「新だし巻き玉子」、夏には、アボカドのスライスをスモークサーモンで巻き、オリーブオイルをかけ、ミニトマトとオニオンスライス、三つ葉をトッピングしたもの、秋はさんまを焼いて、身をほぐし、キュウリの酢の物と合わせ、酢橘を添えた小鉢等、原稿を渡す度に期待感は高まり編集部は大喜びだった。
2年ほど続いた連載が終わる頃だった。和泉ちゃんが連れてきたのは日本のロケット開発の父、糸川英夫博士と研究所の職員。印象的だったのは、先生は卓に置かれた皿に目を釘付けにして観察し、口に入れると目を閉じ、分析するような召し上がり方だったこと。いつも穏やかで優しく、料理に舌鼓を打ちながら、来られる度、探求心旺盛なのかいろんな質問を私にぶつけてきた。中でも先生の興味を引いたのは、トルティージャに使われる消石灰だった。日本でもこんにゃく作りに使われていますよと答えると、「面白いね、関連性を調べてみよう。」と興味津々だった。後日、消石灰の正体は水酸化カルシウム、生地をしなやかにし、食材の香りを高め、酸性食品との中和剤として消化を助けると報告された。全く専門外の件なのに調べて頂いた知識はその後の私の講義に大いに役立っている。その頃はまだ珍しかった食用のサボテンの話にも食指が動き、自分が出演する番組で調理してほしいと懇願され、築地で購入した材料で収録に出向いた出来事もあった。育ち過ぎていて渋みも出ていたが、なんとかサボテン講義で事なきを得た。終了後、「ちょっと酸味があったけど、楽しかったね。」と声をかけられた。1999年に点に召されたが、その3年くらい前まで奥様や職員とよく来られていて、本国の食の歴史を聴きたいと、飽くなき向学心は健在だった。その4年後和泉ちゃんも旅立ってしまった。お二人に合掌!
第114章 メキシコ料理に欠かせない「ラード」のこと
1521年以降、メキシコ先住民の食生活に大きな変化がある。スペイン人によって持ち込まれた豚から摂れるラードで揚げ物が作れるようになったことである。それまでの焼く、煮る、蒸すに加えて大きく調理の幅は広がった。安価で重宝な油は徐々に民衆に受け入れられ、マサ(とうもろこしの生地)でチーズを包み揚げたケサディージャ、野菜や挽肉を包み揚げたガルナーチャ、チレ・ポブラノ(唐辛子)に詰め物をして衣を付け、揚げたチレス・レジェーノスなど枚挙にいとまがないが、独創性あふれる品々の彩りに欠かせないものとなっている。彼らの主食であるトルティージャのユニークな調理法がある。冷えて時間のたったものは小さく切ってラードで揚げ、様々に活用するのである。揚げたものをTOTOPO(トトッポ)と呼ぶが、元々はプレ・イスパニカ(スペイン文化到達以前)の時代、数千年に渡り使われていた名称である。十分に加熱して固く焼いたトルティージャを手で割り、サルサや煮込みに使って食していた歴史は、他国に例を見ない独特の文化である。揚げることによって香りも風味も増したトトッポはメキシコ料理の進化を物語るものであろう。代表的な献立にチラキレスがある。その昔は野草とともにトマトで煮ていたが、近代はトトッポに鶏肉、チーズを加えてトマトで調理する形が普及している。メキシコ独自のとうもろこし活用法には感心させられてしまう。
ラ・カシータでも開業以来ラードは必要不可欠は油となっているが、調理工程の流れの中で思わぬ相乗効果が生まれていた。毎日のように作るトトッポがその香りと旨味をラードに与えていたのである。丁度、鰻屋が自慢するかば焼きのタレのように、店の味の基盤が偶然構成されていた。フリホーレス・レフリートス(二度炒め豆)、豚の胃のタコスに加味されるその美味しさは、長年の常連客を裏切らない味の決め手となっている。エンチラーダスも然りである。トルティージャに鶏肉などの具材を挟み、赤や緑、モーレ等の唐辛子ソースをかけたものであるが、修業時代に修得したひと手間が重要な要となっていた。焼きたてのトルティージャをラードにくぐらせる作業である。トルティージャもしなやかになり、美味に変貌する。こうして仕上がった皿は顧客を魅了し、数多くのリピーターを増やしている。最初の渡墨でメキシコ本国の屋台やメルカード(市場)でアントヒートス(惣菜)を口にした時、ふと懐かしさを覚えた瞬間があった。昭和30年代、子供の頃、市場で買ったコロッケや鯨カツに共通した風味が感じられたのである。後にそれがラードだと知ることになるが、戦没復興の中で庶民に親しまれた、安くて使い勝手が良く風味豊かなラードは我が国でも大衆惣菜の味方だった。近来健康志向の風潮からラードは敬遠されているが、是非とも推奨したい油である。
第115章 メキシコのチーズ
メキシコ先住民に牧畜、チーズ生産の技術を授けたのはスペイン人達、16世紀の頃であった。以後、伝統郷土料理の彩りに欠かせないパートナーとして全国の地域で食されている。中でも山羊の乳(最近は牛と山羊のブレンド)から作られる短期熟成(2〜8か月)の「ケソ・アニェホ」はアントヒートス(惣菜類)のトッピングに必要不可欠な存在となっていて、塩分は強めだが柔らかく、優しいハーブの香りが調理されたものにアクセントを与えている。「ケソ・フンディード」(メキシコ式フォンデュー)によく使われるケソ・マンチェゴは濃厚な旨味を持つ。スペインの地方、ラ・マンチャの製法で作られたこのチーズは加熱すると熟成した香りが際立ち、充分な美味しさを期待させてくれる。硬粒種(又は馬歯種)のとうもろこしから作られる主食のトルティージャとの相性も抜群で、通常はカステラと呼ばれる土鍋にチーズだけが融かされて、共に提供されている。具材を足す場合、一般的にはチレ・ポプラノ(深緑色の大きな唐辛子)をスライスして熱処理したラハスだけか、チョリーソ(塩分が強く微発酵した太めの腸詰め)を乱切りにして加えた形が知られている。ラハス(Rajas)とはスペイン語で裂いたものの意だが、長年の習慣の中でチレ・ポプラノだけに限られた調理法して定着している。敢えて主語を言わなくても食生活に根差した言葉と理解できる。
ラ・カシータ創設時、メキシコ料理は辛いだけのイメージを払拭したくて、もがいていた私にとって、ラハスについて熟慮して出した結論は野菜の旨味を充分に活用した形だった。ピーマンだけに辛味を付けても正解なのかもしれないが、あまりにもシンプルすぎて、メキシコ料理が軽視されるのに大きな抵抗があったのを記憶している。玉ねぎ、人参、ピーマン、ニンニクを駆使して調理したラハスはサルサ・メヒカーナと共にタコス、ケサディージャの薬味、メキシカンライスの付け合わせとして提供していたが、これだけでも食べたいと追加注文する顧客達が増えていった。後に店の人気メニューとして登場してくるラハス・コン・ケソも同様、前述したケソ・フンディードとラハスの食材を合体させ、アドボソースの旨味をかくし味にした豚ロース肉の美味しさを加味、チレ・ハラペーニョの辛味がほのかに漂う絶品に仕上がった。以来リピーターも多く、先日も常連の寺門ジモンがどうしても自分の番組で紹介したいと依頼があり、2018年4月にフジTV「ペコジャニ」で放映された。翌日から彼のファン達がラハス・コン・ケソを求めて何組も来店、ジモンの人気度も大変なものである。最近、オアハカ地方の名産チーズ、ケシージョも輸入されるようになり、少しずつメキシコ本国の個性豊かな味に気づく機会は増えてきたが、メキシコがチーズ大国と認識してもらえる状況にはほど遠い。
第116章 チレ・ハラペーニョの持味
近来フレッシュなメキシコ唐辛子の類がスーパーやデパートでも売られるようになってきた。一昔前には考えられない状況である。勿論、この国では夏だけの限定品だがこれまでの青唐辛子に比べると格段に美味しく、使い勝手も良くなっている。千葉、茨城、京都等、全国各地に生産者が増えたのも、調理人だけでなく一般庶民の需要が大きくなってきたのが要因であろう。とりわけ人気があるのがチレ・ハラペーニョ。それぞれの生産者地域の環境で育まれたそれらは、メキシコ独特の辛味、香り、持味を備えながら微かに和の風味を醸し出している。先日も店と取引のある京都の業者の紹介で、新宿伊勢丹デパートにて調理ライブを行ってきた。チレ・ハラペーニョを使った、家庭でも簡単に出来るオリジナルサルサ3種の披露は来店客だけでなく、アシスト頂いた専属シェフ達にも好評だった。特に喜ばれたのは、サルサ類の食卓での活用である。ホットプレート上の焼物類、豚カツ、肉団子、鶏笹身の蒸し物、焼き魚等との調和は彼等を驚かせた。余りの評判に再度呼ばれ、キッチンフーズの調理が終わってから、地下の厨房で寿司職人への実演を依頼された。巻き物にワカモーレが抜群の相性なのは「NHK今日の料理」で実証済みだったので確信はあったが、相手の感動は予想を超えるものだった。創作手巻きの売り場には、その内、新商品が並ぶことになるだろう。
チレ・ハラペーニョの呼称は今や世間一般、多くの人々に認識されるようになったが、メキシコ本国では元来「クアレスメーニョ」の名で知られている。ほぼ全土で生産されているが、港町ベラクルスの北西90kmに位置する州都JALAPA(ハラパ)の丘陵地帯で育ったそれらが最高の美味と評価され、ハラパのクアレスメーニョとして出荷するようになった。因みにハラペーニョはスペイン語で「ハラパの」の意である。私の修業時代、厨房では双方区別されていたが、今はどうなのだろうか・・・。マヤの聖地、ユカタン半島に根付いているチレ・ハバネロ(HABANERO)の名も、すぐ、お隣の国キューバ共和国の首都ハバナ(HABANA)に由来する。「ハバナから」を意味するこの唐辛子が、いったいいつ頃からユカタン州に群生するようになったのか非常に興味がわくが、いつか知りたいものだ。州都メリダの市場で遭遇したチレ・ハバネロは、近くの村の畑で獲れたもので、その強烈な印象は強く記憶に残っている。麻酔を打たれたように身体を包み込む香り、突き刺してくる痛みの辛さ中に穂のかに漂う果実の甘味、胎座に触れると火傷しそうな身の危険を感じた覚えがある。現在、日本で流通しているそれらの10倍くらい存在感があった。メキシコ本国の地元で育ったチレ達は個性豊かで、その持味を充分に発揮している。次回はチレ達に与えられた偉大な力について。
第117章 メキシコの唐辛子のこと
メキシコのメルカード(市場)を巡ると、各地域それぞれの唐辛子が何種類も山積みで売られている。それだけ国民の需要が大きいのだが、購入する際、彼等にとって一番大事なことは辛さではなく、それらが持っている香りと旨味なのである。サルサ・メヒカーナに使われるチレ・セラーノは突いてくるような辛味と共に、野趣な青い香りと瑞々しい果肉の旨味を兼ね備えている。大人の小指ほどの大きさだが、山地に育った自然のままの素朴さは実に味わい深いものがある。フレッシュなチレの中では断然の大きさ(15cmくらい)を誇るチレ・ポプラノも野性味溢れる青野菜の香りの中に、噛み締める旨さとほのかに漂う甘味が絶妙である。主に付け合わせや詰め物に使われる。形がリンゴに似ているチレ・マンサーノは強い辛さと甘い果実性が同居していて、パパイヤやパインを彩りにしたフルーツ系サルサ等に調理される。チレ・ハラペーニョやチレ・アバネロも生のまま、刻んだトマトや玉ねぎと混ぜてサルサにしているが、意外なことにメキシコでは酢漬けのチレ・ハラペーニョが好まれている。タコスに並んで全国的な大衆食トルタ、鉄板で加熱したハムやソーセージを炒り卵や目玉焼き等と炒め合わせたものを、薄い楕円形のコッペパンに挟んだものだが、アクセントとして欠かせないのがスライスしたアボカド、酢漬けのチレ・ハラペーニョのトッピング。安価でボリュームもあり正に庶民の味方、私も在墨当時、休みの度に近所のトルタ屋で空腹を満たしたものである。
コロンブスが大陸を発見した1402年、初めて唐辛子と遭遇するのだが、それまでの凡そ1万年間、先住民達が食生活の糧にしてきたそれらは、偉大な側面を忍ばせていた。狩猟採集時代は獲物の肉の香辛料として使われていたのか、農耕を始めてから気づいたのか定かではないが、干したチレからは出汁が出るのである。乾燥させても15cm〜20cmの長さを持つチレ・パスィージャ、生はチフカと呼ばれ煮物などに利用されるが、前者は昆布の旨味を備え持つ。他にもチレ・アンチョ、チレ・ヴァヒージョ、チレ・ムラートには昆布を香ばしくしたような風味がある。驚くのはチレ・ハラペーニョを干してから焙煎したチレ・チポトレを加熱すると、まるで鰹節のような旨味が溢れ出る。残念ながら、日本の唐辛子達にはとても追いつけない持味である。痩せた土地だと頑張る彼等とってメキシコの石灰質土壌は、絶好の環境だったに違いない。他国だとタイ、ベトナム、韓国、中国の四川等の唐辛子達も、ご多分に漏れず、個性のある美味しさを披露している。肥えた土の我が国では甘えて未熟なまま成長するので、過保護の状態で大人になったようなものである。唯一、メキシコ本国のそれに近かったのは、唐辛子祭りのイベントで出会った大田原の栃木三鷹、香りも味も申し分なしだった。唯、全国に出荷できる生産量ではないので、その方面に機会があれば、是非、味わって頂きたいものである。
第118章 CilantroとEpazote
メキシコ料理の調理に欠かすことのできない二つの葉っぱ、Cilantro(シラントロ)とEpazote(エパソテ)、前者は、コリアンダーの生葉、後者はアリタソウと呼ばれる野生の茶葉である。日本でも一時期のタイ料理ブームのおかげで、シラントロはパクチーの名で広く世に知られるようになった。香菜(シャンツァイ)とも呼ばれ、現在では世界中で栽培されている。調べてみると原産は地中海地方、その歴史は古く、紀元前1650年の医学書「エーベルス・パピルス」やサンスクリットの書物などに、料理法や薬としての使い方が記されている。聖書にも登場していて、神がイスラエルの民に与えた食べ物マナについて、コエンドロの種のように白いと形容している(出エジプト記16章31節)。{参考文献、スパイスブック、山と渓谷社}。メキシコ修業当時、最初はその香りとクセのある味に抵抗があったが、日々、暮らすうちに、いつの間にか好きになっていた。シンプルだが玉ねぎとシラントロの生葉を刻んだだけの薬味は、中東方式で肉を重ねて横火で焼いた「タコス・アル・バストール」や厚めのマサ(とうもろこしを練った生地)で食用サボテン等の具材を包んで焼いた「ゴルディータ」には必要不可欠なものである。また、完熟した緑のトマトで作るサルサ・ベルデや赤いトマトが定番のサルサ・メヒカーナにもシラントロはその香りと風味で独特のアクセントを与えている。
ラ・カシータを開業した1976年の頃は手に入れる術が無く、止む無くサルサ・メヒカーナはシラントロ抜きで調理を講じたが、結果的にトマトの風味豊かなサルサが評判を呼び、常連客は増えていった。あれから40年余、現在も当初のレシピで仕込んでいる。旧山手通りにオープンした頃、親しくなったメキシコ大使館の方に種子を頂ける機会があった。夏のプランターで栽培を試みたところ、小さい葉ながらも育ってくれたので、蛸のセピッチェ(レモン漬け)に使ってみた。顧客だった食通で知られる映画評論家の、故荻昌弘先生の目に留まり、「美味しいね、シャンツァイが潜んでいるのがいいね!」と絶賛され、後日、先生の著書「味で勝負」に掲載して頂いたのを懐かしく思い出す。エバソテも本国メキシコでは、フリホーレス(インゲン豆の煮たもの)やトルティージャスープ、モーレ・デ・オージャ(牛肉と野菜の煮込み)、緑のモーレなどに欠かせない食材である。ナワトル語の「epazoti」が語源であるところから考えると、先住民達が数千年に亘り食生活に取り入れてきた歴史が窺われる。ひなびた香りと微かな酸味、独特の風味はそれぞれの献立にメキシコ料理の独自性を顕著に表している。太古の昔から食の来歴を築き上げてきたメキシコの方々は、スペイン人来訪の後も揺らぐことなく、先祖の伝統を守り個性溢れる食文化を歩み続けている。
第119章 牛フィレステーキ タンピコスタイル
私が料理の道を志して歩き始めた1970年代の頃、日本では西洋料理に於いてフルコース(オードブル、スープに始まり、魚美玖、野菜料理の後、デザート、コーヒーで終わる){広辞苑より}があるのはフランスだけだと思われていた。その他の国、例えば、イタリアならピッツァとスパゲッティ、ロシアはピロシキとボルシチ、インドはチャパティとカレー、韓国はキムチと焼肉等、それらを賞味しただけで、その国の食文化全てに触れたような認識だった。メキシコ料理に関しては無知も同然、少し知識のある方々も煮豆とタコスだけの理解で捉えられていた。まだ海外を訪れるには高額は航空運賃、ドルの持ち出し制限等、制約も多くあり、情報を得るには中々、難しい時代でもあった。イタリアンのスーパーシェフ達が台頭してきた1990年半ば頃には、地域性溢れる献立の妙味、ピッツェリア、トラットリア、リストランテなどの区別、1553年、フランス国王に嫁いだメディチ家の妃付コックがフレンチの基礎を作った歴史が明らかにされ、一気に興味の対象が広がった。因みに現在も日常的にトスカーナで食べられているインゲン豆は16世紀にメキシコから渡ったものである。彼らがそれぞれ現地で修業して得た知識や技術の披露は、日本人を感心させるには充分過ぎる程の力量だった。真に羨ましい限りである。メキシコ料理店も、最近全国に増えてきたが、現地で修業した調理人は数人しかいない。レシピ本や旅行程度で習得できるものではない。
メキシコ料理にフルコースがあることを表明しなければと決意したのは、旧山手通りにオープンした1978年だった。前菜、スープ、一品料理をふんだんに盛り込んだメニューの数々は、徐々に知識層に浸透していった。海老のにんにく炒め、若鶏のメキシカンソース、中でも評判を取ったのは、CARNE ASADA A LA TANPIQENA(牛フィレステーキ タンピコスタイル)である。このステーキは、私が修行した伝統料理の店(メゾン デル カバージョ バーヨ)の初代オーナー、ホセ・イネス・ロレード氏が生まれ故郷のタンピコをイメージして1939年に考案した皿である。タンピコの山並みに見立てて牛フィレ肉を屏風のように折り返し、繋げながら切ってゆく。折り返し部分がまるで山脈のように見える見事な帯状のステーキである。メキシコ滞在中、全国を回ったが、驚いたのは、瞬く間にメキシコ全土のレストランに広まり、肉の部位や付け合わせの類の変化はあるが、タンピコ・ステーキの名がメニューに載っている事実である。中には(ロレード氏のレシピで)と但し書きが記されている店が何軒もあった。ラ・カシータの顧客達にも好評で、多くの常連客が40年近くタンピケーニャを食べたくて通い続けてくれている。目を掛けてくれたロレード氏に感謝。